佐伯天神山(さえきてんじんやま)岡山県和気町 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
トップに戻る 2015年に登った山リストへ戻る 山名アイウエオ順 2015年1月24日 河本コミュニティハウス →0:30→ 天地地蔵 →0:15→ 三の丸の東屋 →0:10→本丸跡 →0:25→ 太鼓の丸 →0:05→ 山頂 →0:10→ 和気美しい森入口 →0:35→ 本丸跡 →0:35→ 舗装道出合い →0:15→ 河本コミュニティハウス 全歩行時間 3時間 0分 山と渓谷社の分県シリーズ「岡山県の山」の踏破を続けている。午前中に備前市日生の天狗山の登山を終え、次に向かうのは和気町にそびえる佐伯天神山。登山口の河本コミュニティハウスへ向かう起点を山陽自動車道の和気インターとすれば、高速道路を下りて国道374号を吉井川沿いに北上する。 やがて岩戸地区へ入れば右に和気町立山田小学校が見えてくる。この少し手前に河本コミュニティハウスが建っている。国道からこのコミュニティハウスへ向かうには、右に天右門別神社を過ごし、左カーブを描き始めたところで左側にカーブミラーを確認すれば、ここで右折、坂を下るとそのままコミュニティハウスへ着く。 さて、河本コミュニティハウス前に車を置いて登山を開始、天右門別神社まで進み、登山の無事を祈願する。この神社の左の狛犬は備前焼、右の狛犬はと言うと、なんと和気清麻呂公。しかも備前焼と言うには恐れ入った。足下にはイノシシも控えており、イノシシに助けられた故事にちなむものだろう。 天神山の登山口はこの神社から少し西にあり、途中にはきれいなトイレも用意されていた。天神山城跡の石柱、天神山城址登山口の案内を確認して山道に入る。本丸までは1100mと案内されており、これから急登が続く。 自然林の下を進むとすぐに岩の目立つ場所に出る。ここではロープを補助に一気に高度を上げる。わずかに高度が上がるだけで、展望は格段に広がるものである。それにしても清流吉井川の美しいこと、穏やかな水面が素晴らしく、岩の目立つ急登へ向かうのはとても楽しい。 間もなく見張り所へ到着、眼下には吉井川と集落の展望が広がっている。明るい青空を眺めながら自然林の下、急な傾斜を踏ん張れば、天地地蔵の案内が見えてきた。案内に従い分岐を右折すれば、左に風化した石仏が見えてきた。これが歴史ある天地地蔵で、眼下には吉井川が美しい。
更に急な坂を登れば、やがて石組みの目立つ場所へ着く。この石組みの上が「下の段」、隠曲輪で西方より進入してきた敵を上から攻撃する郭、五十一騎一備の枡形である。ここから西を眺めれば、樹間越しの向かいには平坦な稜線が続いている。
下の段から一段上がると次に現れるのが西櫓台、ここには佐伯平野の見張りと本丸・竜ヶ鼻城との連絡場としての櫓台があったそうだ。この上の三の丸には東屋の休憩所が設置され、急登の疲れを癒やすことができる。周囲は樹林で覆われているものの、落葉のおかげで眼下に吉井川や山田小学校など出発地付近が一望である。
この三の丸は二の丸と同様に城主の館、もしくは重臣(家老格)の屋敷が置かれていた。城本来の機能的構成部分の外郭に相当し、虎口は他の曲輪と比べて厳重を極めているそうだ。 さて、三の丸を出発すればしばらく平坦な尾根道が続く。わずかな高台にある帯曲輪を過ごせば鍛冶場へ着く。この付近には城の拡張工事に必要な器具の製造・修理・武具・武器の確保のため鍛冶職人を常に置いていたそうだ。この北側には瓦状の祠が祀られており、その先から北へは百貫井戸道が続いている。
このあたりは河本登山口から800mに位置しており、付近には大手門跡、桜の馬場等の案内があり、桜馬場は連郭式山城最大の郭で、両側面には帯曲輪・腰曲輪・犬走りなどがある。更に尾根道を進むと鉄砲櫓、食料櫓、武器櫓などのあった長屋の段を通過、本丸を保護する第二の拠点の二の丸へ着く。 「浦上遠江守宗景之城址」の石碑の立つ本丸跡(クリックで拡大) 本丸防衛のための掘割である空堀を過ごせば、広い本丸へ着く。中央付近には「浦上遠江守宗景之城址」の石碑が立ち、北には樹間越しに田土の集落を見下ろす。本丸跡から南側には侍屋敷経由で天瀬登山口へ続く下山道が分岐しているが、この道は下山時に採る予定である。
細長い城郭は更に続き、浦上宗景公の重臣明石飛騨守景親の屋敷跡である飛騨の丸を過ごし馬屋の段へ着く。南櫓台、南の段、堀切を過ごすと足下には擬木の階段が現れる。もう太鼓の丸までは進行へ方向へ500m、ここで北へ下れば水の手(田土へ)500mと案内されていた。
旧天神山城防衛のために敵が塁をよじ登ってきた時、石落とし用としての積んだ石の小山の亀の甲を通過し、岩の目立つ急登に向かう。間もなく旧天神山城防衛のための石門(下の門)を通り抜ける。更に上の門を過ごし、わずかに坂を登れば旧天神山城の太鼓の丸へ着く。
室町時代以前に、日笠青山城の出城として日笠氏が築城したもので、浦上宗景の享禄4年天神山出陣の足がかりとなり、天文時代より太鼓櫓として物見台の役目と家臣団集合の合図をした役目の櫓「人桝」と呼ばれ、東方に根小屋があり搦手門となるそうだ。 展望岩から眼下に田土地区の展望(クリックで拡大) 太鼓の丸からは北に展望が開け、眼下には田土地区ののどかな風景を眺める。太鼓の丸では苔むした石組みも残っており、歴史ある石組みを眺めるのもまた楽しい。太鼓丸の先には大きな軍用石が残っており、この岩上に立てば、南に吉井川の流れる田原地区の展望が広がる。
石門を過ごし平坦な尾根道を歩いていると、道の途中に三角点を見つけた。この地点が佐伯天神山の山頂で、山頂には三等三角点が置かれていた。山頂付近は樹林の背が高く、展望を得ることはできない。三角点の前で記念撮影をし、更に尾根道を東へ進む。
郭跡や堀切の案内を過ごせば、ビジターセンターへ330mの案内が現れた。更に遊歩道を進み、昆虫の森・野鳥の森への分岐を左に過ごす。御影石に掘られた「吉井川中流県立自然公園特別地」の石柱を過ごせば、和気美しい森へ着く。なお、天神山への入口(現在立っている場所)から天神山の太鼓の丸までは500mで、20分と案内されていた。 和気美しい森ビジターセンターと入口付近 公園内を散策してビジターセンターまで足を伸ばした後、下山を開始する。元来た道を引き返し、三角点や軍用石等を過ごして太鼓の丸へ到着。緩やかなアップダウンを繰り返しながら本丸跡まで引き返した。ここで侍屋敷、天瀬登山口1.3kmの案内に従い、山腹につけられた細い道へ向かう。
足下には落ち葉が多く、ロールベアリング状態、一旦滑り始めたら止まりそうにない。途中に空堀の案内を過ごし、しばらく西へ向かって下る。間もなくジグザグを描きながら一気に高度を下げる。標高100m付近で左右の分岐が現れ、右は登山口へ向かう順路と思われるが、左は侍屋敷へと続いている。ここでは侍屋敷へ向かって左の道を採る。
細い道を辿れば、広く平坦な場所に出た。この付近が侍屋敷の上の段である。踏み跡を辿り、少しずつ高度を下げれば、歴史ある石組みなどが周囲に多い。石組みを眺めながら坂を下れば、先ほど別れた遊歩道と出合い、すぐに舗装道へ着いた。この入口には天神山と侍屋敷の案内図が掲示され、先ほど眺めていた石組みの位置などが一目瞭然である。 さて、舗装道に出れば進路を西へ採る。この舗装道はもともと鉄道の路線だったそうで、快適な道を進み、途中でトンネルを2つ過ごす。間もなく清流50選の天神淵の案内を過ごせば、備前片鉄バスの河本停留所へ到着。天右門別神社を過ごせば、登山口へ着く。
ここで山頂の案内にもあった浦上与次郎の墓所へ向かってみる。登山口から西へ進み、橋を渡ってすぐに右折。そのまま道なりに進んでいると、左側に墓所への案内が置かれている。この案内に従い折り返すように坂を登る。
アスファルト舗装の道はすぐにコンクリート舗装へと変わり、足下に石が目立ち始めれば、正面に浦上与次郎の墓所の五輪塔が見えてくる。 案内には、浦上宗景の嫡男与次郎宗辰は天文18年(1549)に誕生、与次郎は宇喜田直家の娘を嫁にするが、天正5年5月、直家の居城に招待され、しばらく逗留の間に毒酒を用いられ、29歳で亡くなったと書かれている。戦国の世の非情さが伝わってくる五輪塔である。 登山口から佐伯天神山 河本地区 天地地蔵 本丸跡 太鼓の丸から田土地区の展望 太鼓の丸 侍屋敷跡の石組み 前の山 天狗山 を見る 次の山 八塔寺山 を見る 登山口周辺の地図はこちら 岡山県和気町 佐伯天神山 登山口付近のMAP |