浜田城跡(はまだじょうあと)島根県浜田市

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2016年2月28日

秋葉社 →0:15→ 浜田城跡本丸 →0:10→ 秋葉社

全歩行時間 0時間25分

 浜田城の女忠臣蔵、烈女お初(お察)の事が気になり、島根県浜田市へ。ちょうどお昼に浜田市内へ着いたので、「しまねお魚センター」に行き、山陰で有名な魚の「のどぐろ」の塩焼きを頂いた。噂以上の味に美味しく、満足の昼食である。

しまねお魚センター

のどぐろ定食と海鮮丼

 その後烈女お初の碑と墓所に参拝、この物語については末尾に紹介しておく。

イカ釣り漁船 烈女お初の碑とお察の墓所

坂を登った先で折り返すように左折 秋葉社

 烈女お初の碑と墓所に参拝後、次は浜田藩の居城の浜田城見学をする。ゆめタウン浜田イズミ前から国道9号を東へ進み、浜田川に架かる橋を渡る。左に立正佼成会の施設を過ごし、少しの坂を登ったところで、折り返すように左上方向へ進路を採れば、すぐに秋葉社が祀られていた。この付近の邪魔にならないところへ車を置いて浜田城へ向かう。

秋葉社の前を右折(直進しても可) 平坦な広場は浜田護国神社境内

 秋葉社前から舗装道を進むと、進路は左方向へ折り返し、すぐに平坦な広場へ着いた。右には島村抱月の石碑があり、この広場にはいろいろな記念碑が置かれている。それにしても驚いたのは、この山は元々鴨山と言われており、万葉集歌人の柿本人麻呂の終焉地の一つとされていた。事前の調査なしに訪問すると、このようなうれしい発見がある。なお、私は歌人斎藤茂吉が、柿本人麻呂の終焉の地と定めた、島根県美郷町にそびえる鴨山へも登っている。

島村抱月碑 木口小平像

 さて、浜田護国神社の境内に入ると右に、尋常小学校修身の教科書に「木口小平は死んでもラッパを放しませんでした」と紹介かれた「木口小平」の像が建っていた。この物語は以下の通りである。

 朝鮮成歓の戦闘の際、木口小平が突撃ラッパを吹いている時に敵弾を受け倒れた。ラッパが突然止んだために隊長が「ラッパはどうした?」と問いかけると、木口小平は銃を杖にして立ち上がりラッパを吹き続けたと言う。

 部隊は突撃を続け敵陣地を占領したが木口小平の姿が無く、不審に思った隊長が引き返すと、木口小平はラッパを吹いている姿勢のまま息絶えていたと伝えられる。

 ラッパを吹き続けながら息絶えた壮絶な最期が、当時の人々に深い感動を与え「軍神」として崇められたそうだ。

浜田護国神社へ参拝 登城口

 木口小平の碑を過ごしてまっすぐ西(奥)へ進み、浜田護国神社へ参拝。浜田城へは護国神社を左に見ながら進むと、登城口が見えてくる。登城口の左には司馬遼太郎氏による「浜田城追懐の碑」が建ち、浜田城についての記述が刻まれていた。浜田城の案内を眺めて緩やかな傾斜に向かう。

司馬遼太郎の浜田藩追懐の碑 旧津和野城の城門

 右に門が見えてくるが、これは浜田県庁の門で、元々津和野城の門だったが、明治3年の浜田県設置に伴い、その県庁舎として明治4年に、門を含む建物が現在の浜田郵便局の地に移され、明治5年に上棟式が行われたそうだ。

早咲きの桜 立派な石垣

 門を潜り石段を登る。左に折り返す付近で右には立派な石垣が見えてくる。天守閣は無くともこの石垣を眺めるだけで、この城が立派な建物であったことは容易に想像できる。三の丸や出丸の石垣を眺め、更に石段を登れば、広く平坦な本丸に着く。

三の丸 広い本丸跡

 本丸の奥には大きな台座が置かれているが、その上には何も残っていない。昔は「報国忠勇」の碑が置かれ、その上に砲身と弾丸が設置されていたが、昭和18年に供出されたそうだ。本丸跡の周囲には北東に外ノ浦の港、北西に日本海、南西に市街地と大規模店舗を眺めることができる。

報国忠勇の碑の台座 北東に外ノ浦の港

 三重櫓が置かれていた広場には現在何も残っていない。長州藩四境戦争(1866年)の石州口の戦いの際、軍神大村益次郎率いる長州軍に幕府軍は総崩れとなり、幕府軍に与した浜田藩は自焼退城という運命になった。この本丸跡は、まさに兵どもが夢の跡の舞台である。

北西に日本海 南西に市街地と大麻山

 城跡見学の後、護国神社から東側に下りてみた。こちらは浜田護国神社の参道で、登城時には立派な石段を登ることになる。着いたところでは右に木口小平の碑が迎えるというなんとも堪らないシーンが待っている。

浜田護国神社入口と参道

 さて、護国神社へ引き返し、周囲に建立された記念碑などを眺め、護国神社の左横から地道を通って秋葉社まで引き返した。

護国神社の左側から下る 快適な道が続く

 烈女お初の物語

 第六代藩主松平周防守康豊は、津和野藩主亀井茲政の娘を奥方に迎えた。この夫人の輿入れの際、お世話係に選ばれたのが、士族の娘の落合沢野である。才色兼備の沢野であったが、60歳を過ぎた老女のため、気短で無理を言い張り、多くの奥女中はいずれも困っていた。

 そこで補佐役として顔形、才能諸芸にすぐれた、元大和国郡山藩士の娘の岡本道女が選ばれた。その道女の女中として召し抱えられたのが、長府藩足軽頭の娘、松田 察であった。察は心だてがやさしく、主人道女によく仕え、道女も我が妹のようにかわいがった。

 道女は江戸屋敷で良く働き、性格も良いことから夫人にも愛され、奥女中達からも慕われた。しかし沢野は、寵愛を一身に集め、人望もある道女が妬ましくて仕方が無かった。

 ある時、道女は藩主から急用で呼ばれた際、自分の草履が見当たらず、その辺に脱いであった草履を履いて御前に出た。ところがその草履は沢野のものであったため、沢野は道女をきつくとがめ、更に道女の親や家名までも引き合いに出して道女をののしった。これ以上無い辱めをうけた道女は、懐剣で無念の自害を遂げてしまった。

 察は道女の自害を知り、激しい義憤に追われ、直ちに主人の仇を討とうと決心。「主人急病」と偽って沢野を呼び寄せ、「主人の仇」と道女が自害した懐剣で沢野を討ち、見事主人の無念を晴らした。

 その後、察は取調べを受けたが、女ながら主人の仇を討った忠節を褒められ、高く取り立てられた。後年この話は脚色され、沢野を岩藤、道女を尾上、察をお初とし、人形浄瑠璃や歌舞伎『鏡山旧錦絵』等が演じられた。

烈女お初の碑とお察の墓所

麓から浜田城跡

木口小平像

浜田城跡山頂の本丸

外ノ浦の港

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登山口周辺の地図はこちら 島根県浜田市 浜田城跡  登山口付近のMAP

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