安土城(あづちじょう)滋賀県近江八幡市 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
トップに戻る 2016年に登った山リストへ戻る 山名アイウエオ順 2016年10月20日 安土城入口 →0:10→ 天守台・三重の塔分岐 →0:15→ 天守台 →0:10→ 分岐 →0:05→ 仁王門 →0:10→ 安土城入口 全歩行時間 0時間50分 JR米原駅を出発して近江八幡市の安土城へ向かう。この途中には彦根城の横を通過。今回は時間が無いのでそのままパスしたが、彦根城は是非登城したい城である。彦根城入口には、今日の「ひこにゃん」の現れる場所と時間が掲示されていた。
やがて安土城跡の駐車場に車を置き、登城を開始する。案内板を確認し、石垣を眺めながら舗装道を進む。受付で入山料700円を支払い資料を頂いた。時刻は丁度午後4時、見学の所要時間を聞くと約1時間とのこと。出入口が一つなので、最後の入山者が帰ってから門を閉めるそうだ。 安土城入口へ 従って、午後5時の閉門までに下城しなければならず、少々慌ただしい登城となりそうだ。案内にも頂上天主まで登り石段405段、往復所要時間1時間と書かれていた。段差の大きい石段を登り始めると、すぐに左へ分岐する道を見る。これは下山時に三重の塔と仁王門を経て帰り着く場所である。
左上には伝羽柴秀吉邸跡と案内された一角がある。なお、右側は伝前田利家邸跡と案内されている。足下に注意していると、「大手道跡の石仏」の案内が置かれていた。この石仏は、築城の際に石材として使用されたそうだ。歩いていると、このような石仏をいくつか見ることができる。 石仏
急傾斜の石段を一気に登ると、進路は西へ向き、平坦な道に変わる。ここで直進方向は三重の塔・仁王門だが、天主に向かって右折する。石段を少し登ると黒金門跡へ着く。安土城中枢部へ続く主要な入口の一つで、使用されている石の大きさが今までの石より大きいことが解る。
黒門跡を出発し、わずかに進むと進路は左へ変わる。この起点には佛足石が置かれている。この石も他の石仏と同様、築城時に石垣として使用されていたものだが、この付近の崩れた石垣の中から発見されたとのこと。お釈迦様の足跡を表現しているらしい。
佛足石を過ごして石段を登り、左側の石段へ取り付くと、この上が二の丸跡、織田信長公の本廟である。羽柴秀吉が天正11年2月に太刀、烏帽子、直垂などの遺品を埋葬して本廟としたそうだ。 二の丸跡から東へ進むと広く平坦な本丸跡へ着く。天守台手前のこの場所は千畳敷とも言われ、東西約50m、南北約34mで東西に細長く、三方を天守台、本丸帯郭、三の丸の各石垣で囲まれている。 天主台跡(クリックで拡大) さあ、いよいよ天守閣跡へ向かって石段を登る。すぐに往時の面影を残す礎石の現存する天守台跡へ到着。立っている部分は地下1階付近で、記録によれば地上6階、地下1階で、当時としては高層の大建築だった。 少し進んで木製階段を登ると安土城跡の最高部の199m地点へ到着、西方向には住宅地や西の湖、その先には琵琶湖を眺めることができる。織田信長が見たであろう景色を眺めて小休止。この安土城は織田信長が天下統一を目標に丹羽長秀に築城させた平山城である。 安土城から眺める展望(クリックで拡大) 我が国で初めて天守閣を持つ城は、天正7年5月に一応の完成をみせた。ところが天正10年(1582)6月2日未明、中国毛利へ出陣途中の明智光秀の謀反により、織田信長は京都本能寺で自刃(49歳)、混乱の中、同6月15日に天主などを消失、一夜のうちに落城した。
その原因は諸説あるそうだが、織田信雄が誤って焼き払ったとか、敗走する明智光秀軍による放火説などが有名である。天守台を出発、元ハ見寺跡、三重の塔への分岐まで引き返し進路を南西へ採る。
右にハ見寺本堂跡を過ごせば左に三重の塔が見えてくる。この塔は織田信長が甲賀の長寿寺より移築したもので、今年甲賀観光をした際、湖南三山の阿星山長寿寺でこの故事を聞いていた。 三重の塔から石段を下れば仁王門へ着く。この仁王門は棟木に「元亀2年(1571)7月甲賀武士山中俊好建立」とあり、金剛力士像と同様国指定重要文化財である。しばらく仁王門を眺めていたが、午後5時が近くなってきたので出発、無事5時前に受付前を通過することができた。 仁王像 仁王門を出発 織田信長公本廟 天守台跡 安土城最高点の展望所 展望
西の湖 三重の塔 仁王門 前の山 小五郎山2016年 を見る 次の山 武奈ヶ岳 を見る 登山口周辺の地図はこちら 滋賀県近江八幡市 安土城 登山口付近のMAP |