書写山「書寫山」(しょしゃざん)兵庫県姫路市

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2014年7月25日

東洋大姫路高校バス停 →0:35→ ロープウエイ山上駅

 →0:15→ 摩尼殿 →0:07→ 山頂(白山権現)

登山口から山頂まで 0時間57分

登山行程図(地図をクリックすると拡大)

 兵庫県姫路市にそびえる書写山(書寫山)。明治期に出版された志賀重昴著「日本風景論」には「海抜三九九米突。姫路市の西北一里二五町、書写村より登り三十町、老木鬱蒼、坂路嵯峨、山頂に圓教寺あり・・・」と紹介され、やはり同時期に出版された野崎左文著「日本名勝地誌」には山中に建つ圓教寺について「山中は老樹を交えて諸鳥囀り、名所甚だ多く、実に国内第一の巨刹なり」と記されている。

 2004年に日本で上映されたハリウッド映画「ザ・ラスト・サムライ」では、圓教寺(円教寺「えんぎょうじ」)の三之堂を始めとする施設がトムクルーズと渡辺謙の会談するシーンなどに使用され、話題となった事は記憶に新しく、最近ではNHK大河ドラマ「軍師官兵衛」のロケが行われたそうだ。これは、1958年の豊臣秀吉による毛利攻めの際、秀吉が姫路城からこの円教寺に本陣を移したことによるものだろう。

「神姫バスの45番、書写西住宅行」に乗る 「東洋大姫路高校前むバス停で下車

 この書写山への行程について、最初は書写山ロープウエイ駅まで行き、東坂登山道を登る予定だったが、バスの案内所で東坂登山道への行き方を聞くと、「神姫バスの45番、書写西住宅行」に乗り、東洋大学付属姫路高等学校の前で下りるとのことだった。そこで行程を変更し、「東洋大姫路高校前」バス停で下車し、少し東方向へ移動する。

「御車寄跡」 「御車寄跡」のある分岐を左折

 進行方向の右側に花山法皇や後醍醐天皇が書写山行幸の際、車駕を駐輦された屋敷跡の「御車寄跡」がある分岐を確認、この分岐を左折する。舗装道を道なりに進むと、左に八王子神社を過ごし、更に北へ向かって進むと、右に書写山円教寺の案内が立っている。ここでネットを潜れば、東坂参道に入る。

八王子神社 東坂登山道入口のネット
「女人順禮堂」の石塔 石段を登る

 私はネットを潜らず、少し東方向へ移動し、左に女人禁制時代の名残と思われる「女人順禮堂」の石塔を過ごす。如意輪寺へ参拝後、本堂左から左右に墓所を見ながら石段へ向かう。手すりの施された石段を登れば、すぐに先ほどの登山道と合流、もう一方の登山道との合流点を左折すると、ボランティアの方が足下を掃き清められておられた。

もう一方の登山道と合流 岩の道を進む

 紫雲堂跡展望広場へ0.6kmの案内を確認して尾根道に入る。すぐに二丁の石柱を過ごし、岩の多い道を進む。進路はジグザグを描きながら高度を上げ、途中では四丁の石柱を過ごす。眼下には市街地の展望が美しく、久しぶりにpm2.5の影響が少ないように思える。

背後には市街地の展望が広がる 五丁の石仏

五丁の展望所から眺める風景

 やがて五丁へ着けば、少し大きめの大日如来が置かれていた。木漏れ日差す自然林の下を進み、六丁休堂跡を通過。案内によれば、今歩いている道は近畿自然歩道とのことである。少し進むと樫の木綱(かしのきづな)の案内があり、珍百景候補?と書かれてた。いったい何かと思って見ると、2本の木がくっついていることが珍しいと言うことだ。

六丁休堂跡 樫の木綱(クリックで拡大)

 すぐに七丁、八丁を通過、巻き道もあるがここでは直登道を採り、岩の露出した道を一気に駆け上がる。背後を振り返れば、展望も一気に広がり、青空の下に広がる風景が美しい。左に「愛心」と書かれた岩を過ごせば間もなく十一丁へ到着、ここには砥石坂の案内が置かれている。

露岩の続く道 十一丁の砥石坂

 左右に多くの松の木を眺め、自然林の下を進むと紫雲堂跡へ着く。案内によれば、この地に紫雲堂と呼ばれるお堂があって、円教寺開基、性空上人がここにたなびく紫雲を見て登山修行されたことにちなんだもので、長く参詣者に親しまれた休堂の跡地とのこと。急傾斜の先には真夏の風景が広がり、とても暑いが青空なので景色は良い。

紫雲堂跡 紫雲堂跡から眺める風景
ロープウエイ山上駅へ向かう 十三丁のロープウエイ山上駅

ロープウエイ山上駅の展望所から眺める風景

 休憩舎を出発し、遊歩道をわずかに進むと円教寺まで1kmとなり、間もなく十三丁のロープウエイ山上駅に着く。三階建ての展望台の上に立つと、眼下に市街地が広がり、遠くには瀬戸内海が見えている。さあ、展望台から下りていよいよ円教寺の参道へ向かう。この参道入口には「書写山と和泉式部」について案内が掲示されていた。

展望台の上から眺める風景とロープウエイ

(1)千年、<西の比叡山>と呼ばれて
 ここ書写山円教寺(えんぎょうじ)は、平安中期、西暦966年、性空上人(しょうくうしょうにん)が開いた天台系の大寺です。
 この時期はまた、日本の平安女流文学が見事に花開いた時でもありました。人々は当時の大寺を数え上げて、長谷山(はせのやま)、石山(いしやま)、比叡山(ひえのやま)、書写の山(しょしゃのやま)と歌いました。
 以来、千年、当山は<西の比叡山>と讃えられて、開祖、性空上人の謙虚さを永世の寺風として、法灯を守り、今日に至っております。
 上人は敏達(ひたつ)天皇の末、橘(たちばな)姓です。
(2)白雲に導かれて書写山へ
 性空上人は、幼い頃から佛心があつく、出家して九州の霧島山で法華経による修行を重ねました。そして新しい瑞雲(ずいうん)が漂うのを見て、上人は書写山に庵(いおり)を結びます。遂に<六根清浄>の悟りを開いて、崖の桜の幹に観音像を刻んで毎日礼拝しました。
(3)恩賜の寺号と和泉式部の名歌がシンボル
 性空上人が悟った報せは、直ちに朝廷へ届きます。花山法皇は書写に行幸して、大講堂を寄進し、<円教寺>の寺号を賜います。
 さらに、上人の勧めで、法皇は万民のために<西国三十三観音巡礼>を中興してありがたい恵みを現代に及ぼされます。いっぽう、和泉式部は、平安女流歌人の第一人者として
 冥(くら)きより 冥き道にぞ 入りぬべき 遥かに照らせ 山の端(は)の月
の名歌を、上人に献じます。恩賜の寺号と、和泉式部の絶唱の名歌は、書写山の象徴(シンボル)であります。

書写山と和泉式部の案内 円教寺境内へ向かう

参道に入る前に書写山円教寺についての案内を確認しておく。
 開基は康保3年西暦966性空上人による。上人は敏達天皇の御末橘善根卿の御子として生まれ、子才にして妙法蓮華経に親しみ、爾来、読誦(どくしょう)の行を積み、36歳にして九州霧島に至り、母を礼して剃頭し、20年にわたり九州各地に聖地を求めて修行される。後瑞雲の導きに従って当山に入り、草庵を結び法華経読誦の行を修め、六根清浄を得梧され、世に高徳の聖と仰がれる。
 寛弘4年3月10日、98歳にして入寂されたが、御徳世に広まり、大衆の帰依も愈々厚く、花山法皇は特に尊崇され、二度も御来駕、後白河法皇も7日間、御参籠される。後醍醐天皇は隠岐より帰京の途次、御参詣、大講堂に一泊される。亦、平清盛、源頼朝をはじめ武将の信仰も厚く、寺領を寄せ講堂を建立する。本多、松平、榊原の姫路城主も信厚く援助を惜しまず、8名の諸侯の墓も今に残る。羽柴秀吉、播磨平定に際しては当山に拠って三木城を攻め落とし500石を寄せる。
 亦、一方、天台宗3大道場の一つとしても多くの修行僧を集め、東の比叡山に対し、西の比叡山とも称され、大講堂をはじめ三十有余の堂塔伽藍を保有し寺運隆盛となる。
 現在18棟の重要文化財を有し、境内18町歩の霊地は国の史跡に指定され、昔の姿を今に残している。
 摩尼殿は西国27番の札所として如意輪観世音菩薩を祀り、霊験あらたかにて全国各地よりの参詣絶え間なく、世界平和、人類の幸福を祈る読経の声は全山にあふれている。
書写山 仙岳院孝啓誌より

参道には案内が多く掲示されている 志納金を納めて境内へ入る

円教寺境内案内図(クリックで拡大)

 円教寺に入るため、入口で志納金500円を支払い境内に入る。摩尼殿前行きのバスを利用するには更に500円必要だが、私はそのままのんびり歩くことにした。西国三十三観音道と称される参道を辿れば、摩尼殿(本堂)まで約15分、摩尼殿から諸堂まで6分と案内されている。この案内の先に慈悲(こころ)の鐘を見る。この鐘は平成4年10月創建で、鎌倉初期を想定して設置されている。

バスで摩尼殿前まで行くことも出来る 慈悲の鐘

 寺の鐘は時刻や大法要の合図のために鳴らされることが多いが、この鐘は世界平和祈願・淨佛国土建設を目指し建立された。ひとりでも多くの方々に、潜在している慈悲をおこし、願いを込めて鐘を打っていただく。その音は佛の声となり、十方世界に響き渡り、ほんとうの心豊かな世界を作っていくことを祈願します。と案内されていた。せっかくなので慈悲の鐘をつき、世界平和を祈願する。鐘楼には、淨佛國土萬民豊楽と刻まれていた。

ベンチの置かれた展望地 広い参道

 さて、慈悲の鐘を出発すると本堂、摩尼殿へ800mの案内が立っている。十五丁を過ごし、参道の左右に祀られた仏像を眺めながら進むと、十六丁の先でベンチの置かれた展望地に出る。眼下に広がる展望には少しずつ霞が増えているようだ。

仁王門

 摩尼殿へは600mとなり十七丁の先に仁王門が現れた。仁王門は円教寺の正門。東坂の終点にあたり、これより中は聖域とされる。門は両側に仁王像を安置し、中央が通路となっており、日本の伝統的な門の形を受け継いだ「三間一戸の八脚門」である。天井には前後に二つの棟をつくり、外の屋根と合わせて「三つ棟造り」となっている。

仁王像 仁王門を振り返る

 昭和15年建立の史跡円教寺境内の石柱を眺めて仁王門を潜る。その際に左右に祀られた仁王像を見学するが、どちらの像も迫力あるものである。円教寺は、「康保3年性空上人の創建にして花山天皇の勅願所なり。元弘3年5月27日後醍醐天皇船上山より還幸の途中本寺に行幸駐輦あらせられたる處なり」と説明されている。さて、仁王門をくぐり参道を進む。

国指定文化財の壽量院

 右上に見える建物は国指定文化財の壽量院で、円教寺の塔頭の一つ、承安4年(1174)に後白河法皇が参籠したという記録が残されており、山内で最も格式の高い塔頭寺院として知られている。建物の構成は、仏間を中心として中門を付けた書院造風の部分と、台所を設けた庫裏とに区分され、唐破風の玄関を構えて両者をつないでいる。当時の塔頭寺院としては珍しい構成で、円教寺型ともいえる塔頭の典型である。なお、この壽量院では事前に予約しておけば、精進料理を頂くことができるそうだ。

五重塔跡 圓教寺会館

 書写山のコケの説明を眺めて更に進むと、右に先ほど眺めた壽量院への道が分岐している。壽量院へ向かう手前には五重塔跡があり、「書写山圓教寺参詣図」「播州書写山縁起絵巻」「播磨書写山伽藍之図」に壽量院のあたりに五重塔が描かれ、その礎石と思われるものが確認されている。それ等には大講堂横の五重塔は描かれておらず、この塔は元徳3年(1331)3月5日落雷により焼失、大講堂・食堂、堂行堂の全焼という大火災になった。壽量院横から大講堂まで延焼してゆくことは考えにくい。そういうことから壽量院横と大講堂横との東西2つの五重塔があり、西の塔が金剛界五仏であることから、この東の塔は胎蔵界五仏を安置していたのであろうか。と説明されている。

十妙院 傘塔婆(クリックで拡大)

 分岐から更に下がれば、左に圓教寺会館を過ごす。右に石垣と白壁の美しい十妙院を眺めながら坂を下ると、もう本堂まで100m。この十妙院は、天正7年(1579)正親町天皇により「岡松院(こうしょういん)」の勅号を賜った。これは、赤松満祐(みつすけ)がわずか16歳で亡くなった女の冥福を祈るために建てたものとされる。円教寺第百六世長吏實祐の住坊となり、實祐を中興第一世とする。その後同じく正親町帝より「十妙院」の勅号を賜った。塔頭壽量院とは左右逆であるが、ほとんど同じ平面構造をもつ円教寺独特の塔頭形式である。

護法石 湯屋橋を渡る

 坂を下れば右に立っている塔婆が傘塔婆で、延慶4年(1331)の記念銘があり、「正面上方を花頭形に彫り、その中に阿弥陀如来像を浮き彫りにしています。笠の反り返りが鎌倉時代の様式をよく伝えています。」と案内されている。笠塔婆の下には護法石(別名弁慶のお手玉石)があり、昔、この石の上に乙天のふたりの童子がこの石に降り立ち、寺門を守ったという伝説が残っている。

三十三所堂 「はづき茶屋」

 また、別名弁慶のお手玉石と呼ばれ、この大きな護法石を、弁慶はお手玉にしたといわれている。護法石を過ごせば次に現れるのが湯屋橋、姫路城主本多忠政の修理によるもので、「奉寄進 播州飾西郡書写山圓教寺御石橋 施主 本多美濃守忠政」とある。元和6年(1620)姫路に着任早々の忠政は書写山へ登り、諸堂の大破に驚き、忠政一門、家中を挙げて修理に尽力した。その頃に補修されたものと説明されている。

摩尼殿

摩尼殿の風景

 湯屋橋を渡ればその正面に摩尼殿がそびえ建っている。これはまさに清水の舞台を彷彿とさせる造りである。その偉容に驚き、感激してしばらく眺めていたが、ほんとうに素晴らしい建造物である。手前で営業している「はづき茶屋」には帰りに立ち寄ることにし、摩尼殿へ向かって石段を登る。

摩尼殿(本堂)前と内部

 摩尼殿の下に着き、屋根を眺めるが、やはりスケールが大きい。更に石段を登り摩尼殿(本堂)前に着く。国登録有形文化財の摩尼殿(如意輪堂)は書写山の中心を成す円教寺の本堂。天禄元年、(970)創建と伝え、西国三十三所観音霊場の第27番札所。桜の霊樹に天人が礼拝するのを見た性空上人が、その生木に如意輪観音を刻み、これを本尊とする堂を築いたのが始まりと伝わる。

本堂に参拝

 幾度か火災に見舞われており、現本堂は大正10年(1921)に焼失した前身建物の残存遺構や資料をもとに、ほぼ前身を踏襲した形で昭和8年(1933)に再建。近代日本を代表する建築家の一人である武田五一が設計し、大工棟梁家の伊藤平左衛門が請け負った。懸造り建築の好例で、伝統的な様式を踏襲しながらも木鼻・蟇股などの彫刻等に近代和風の息吹が感じられる。本尊は六臂如意輪観世音菩薩(兵庫県指定文化財)で、四天王立像(国指定重要文化財)も安置されている。

本堂と絵馬 眼下に茶屋が見えている

摩尼殿の舞台から眺める風景

 摩尼殿(本堂)に入り参拝、その後眼下を見下ろす舞台に立てば、周囲に青葉が美しく、眼下を見下ろす高度感は思わず腰が引けるほどである。摩尼殿を見学後、先に書写山最高峰へ向かうことにする。なお、通常の経路としては、摩尼殿の奥側から大講堂・常行堂・食堂、更に金剛堂・鐘楼へ向かうのが順路となっている。

順路は摩尼殿奥から大講堂へ 摩尼殿奥の自然探勝路に入る

 さて、摩尼殿奥の自然探勝路に入り、白山権現へ向かう。木道を進むと朱の鳥居が建っており、この先にはお稲荷さんが祀られていた。今までの舗装された遊歩道からワイルドな荒れた道に変わり、通常の人なら少々面食らいそうな道が続いている。木の根の張り出す道を進むと、途中には朽ちた白山権現の案内が置かれていた。

稲荷社を過ごす 木の根の目立つ道

 木の根の目立つ道を辿れば、森の住人達という案内が掲示されている。中央部が掘られたような道を進み、着いた場所には白山権現が祀られていた。この付近が書写山最高点の標高371mなので、書写山山頂(白山峰)到着とする。

中央部が掘られたような道 白山権現の建つ山頂

 白山権現は大講堂、摩尼殿についで性空上人が第三の吉所としたところで、上人はここで六根清浄の行をつんで心眼を開いたとされる。それにちなんで1月18日の修正会(鬼追い会式)では、主役の赤鬼、青鬼が先ずこの白山権現に来て、神域をまわりながら四隅でたいまつの明かりを振りかざす。

白山権現

 この地には、性空上人入山以前より祠があった。それは素戔嗚尊をまつる堂であった。これは神の時代、素戔嗚尊がこの峰で一宿されたと伝える。故にこの山を「素戔の杣」と呼んだ。書写山の名は、これに由来すると言われるそうだ。
 白山権現へ参拝し、周囲を見回すが、木々の背が高く展望を得ることはできない。なお、白山権現の東には石碑が置かれ、まるで対をなすように、西の鳥居の先にも「日天龍八王神」と掘られた石碑が建立されていた。

山頂東の石碑 山頂西の石碑

 白山権現を後にし、次は三之堂を目指して西へ向かう。坂を下るとすぐに分岐へ着き、折り返すように左方向へ進路を採れば三之堂へ着く。まず国指定重要文化財の大講堂前へ行く。

白山権現の向かいに立つ施設 分岐を左折し三之堂へ向かう

 寛和2年(968)花山法皇の勅願により創建され、円教寺の寺号を賜る。円教寺の本堂にあたる堂でお経の講義や論義などが行われた学問と修行の場であった。構造は雄大で、和様を基調として一部に唐様(禅宗様)を加えた折衷様式である食堂・常行堂とともにコの字型に建ち並んで「三つの堂」を形成している。

左からから常行堂・食堂・大講堂(クリックで拡大)

 大講堂の向かいに建つのが常行堂で、常行三昧(ひたすら阿弥陀仏の名を唱えながら本尊の周りを回る修行)をするための道場である。建物の構成は、方五間の大規模な東向きの常行堂、北接する長さ十間の細長い建物が楽屋、その中央に張り出した舞台とからなっている。舞台は大講堂の釈迦三尊に舞楽を奉納するためのものと思われる。

大講堂 中央に食堂

 そして大講堂と常行堂の間に立っているのが食堂。承安四年(1174)後白河法皇の勅願で創建。僧たちが勉強したり、寝食をした寮である。別名長堂と呼ばれる通り、長さ45メートル桁行15間、梁間4間もある二階建ての大建築で腰縁をめぐらすなど仏堂として珍しい構造となっている。東西の柱間は、一カ所の格子戸を除くすべてが蔀戸で、圧巻である。三之堂の内この食堂のみが立入可能で、内部を見学することができる。

常行堂 食堂の内部

食堂の内部から眺める風景

 次に奥の院方面へ行くと、丁度重要文化財の護法堂は修復中なので見学することができなかった。まず不動堂を見学、延宝年中(1673〜1681)に堂を作り、明王院の乙天護法童子の本地仏不動明王を祀る。元禄10年(1697)堂を修理し、荒廃していた大経所を合わせて不動堂としている。
 俗に赤堂と呼ばれていた乙天童子の本地堂であるが、若天童子のそれはない。一説には、若天はその姿があまりに怪異なため人々が恐れたので、性空上人が若天に暇を出したともいわれている。
 修理中の護法堂と奥の院の広場を挟んで向かいには護法堂拝殿が建っている。案内には、このように拝殿と本殿(護法堂)が離れて建てられているのは珍しいとされ、今の建物は、天正17年(1589)に建立されたもので、神社様式を取り入れた仏殿の様な建物で、一風変わった拝殿とのことである。

不動堂 護法堂拝殿

 この拝殿はその昔、弁慶が鬼若丸と呼ばれていた頃、7歳から10年間、この山で修行したことから、弁慶の学問所と呼ばれている。今もその勉強机が残っている(食堂に展示中)。
 そして護法堂と護法堂拝殿の間に建っているのが開山堂(奥の院)。円教寺開山の性空上人を祀ったお堂で、堂内の厨子には上人の御真骨を蔵した等身大の木造が納められている。寛弘4年(1007)上人の没年に高弟遠視用延照が創建、弘安9年(1286)消失。現存のものは江戸期寛文11年(1671)に造り替えられたもの。軒下の四隅に左甚五郎の作と伝えられる力士の彫刻があるが、4力士のうち北西隅の一人は、重さに耐えかねて逃げ出したという伝説がある。

開山堂(クリックで力士像) 和泉式部の歌塚

 この開山堂の右側には和泉式部の歌塚がある。「暗きより 暗き道にぞ入りぬべき 遙かに照らせ 山の端の月」性空上人の教えにふれようと、書写山を訪れた平安期の代表的女流歌人・和泉式部が、居留守を使われたときの無念さを歌にしたもの。弟子から様子を聞いた性空は、この歌にひどく感心して、急いで一行を呼び戻し、この歌を返した。「日は入りて 月まだ出ぬたそがれに 揚げて照らす 法の灯」歌塚には鎌倉初期の「天福元年10月26日」と刻まれている。

国指定重要文化財の鐘楼 法華堂

 奥の院観光の次は、国指定重要文化財の鐘楼を見学する。袴腰付で腰組をもった正規の鐘楼で、全体の形もよく整っている。寺伝によれば、鐘楼は元弘2年(1332)に再建、鐘は元亨4年(1324)に再鋳とされる。いずれも確証はないが、形や手法から14世紀前半のものと推定されている。
 鎌倉時代後期の様式を残す鐘楼として県下では最古の遺構であり、全国的にも極めて古いものとして貴重である。銅鐘は、兵庫県指定文化財で、市内では最古のつり鐘である。
 鐘楼の次は法華堂で、法華三昧堂といい、創建は寛和3年(985)播磨国司藤原李孝によって建立された。もとは桧皮葺であった。現在のものは、建物、本尊ともに江戸時代の造立。昔は南面していた。

薬師堂 瀬戸内海(播磨灘)を見晴らす展望地

 法華堂から石段を下りたところには薬師堂が建っている。根本堂とも呼ばれ、円教寺に現存する最古の遺構。元々あった簡素な草堂を、性空上人が三間四面の堂に造り替えたのが始まりと伝わる。
 寺記によると延慶元年(1308)に焼失し、現存の建物は元応元年(1319)に再建された。幾度か改修されており当初の形は明らかではないが、もと方一間の堂に一間の礼堂(外陣)を付設したようである。
 挿肘木など大仏様の手法がみられ、組物や虹梁に当時の特色が残る。本尊(薬師如来)等は、現在食堂に安置されている。なお、昭和53年の解体修理の際、奈良時代の遺物が出土しており、この地には円教寺創建以来、すでに何らかの宗教的施設があったと推測されている。
 この先には瀬戸内海(播磨灘)を見晴らす展望地が整備されているが、遠くの方は少しずつ霞始めている。

金剛堂 本多家墓所

 最後に金剛堂を見学、三間四方の小堂で、もとは普賢院という塔頭の持仏堂であった。内部には仏壇を設け、厨子を安置しており、天井には天女などの絵が描かれている。性空上人は、この地において金剛薩埵にお会いになり、密教の印を授けられたという。
 普賢院は永観2年(984)の創建で上人の居所であったと伝えられるが、明治40年明石・長林寺へ山内伽藍修理費捻出のため売却された(戦災で焼失)。本尊の金剛薩埵像は、現在、食堂に安置されている。

弁慶鏡井戸 大講堂と食堂

円教寺三之堂の風景

 これで一通りの名所見学が終わったので三之堂まで引き返す。思い残すことのないよう、ラストサムライでの舞台の大講堂などを見学して摩尼殿の下へ着く。ここで「はづき茶屋」に入り、山菜そばを頂いた。

はづき茶屋で頂いた山菜そば

「はづき茶屋」の山菜そば 書写山ロープウエイで下山

書写山ロープウエイの風景

 昼食後、明るい摩尼殿を眺めてロープウエイ駅へ到着。書写山ロープウエイの山上駅からロープウエイに乗り込み、麓まで下った。山麓駅前に姫路駅行きのバスが待っていたので乗り込み、姫路城前でバスを下車。世界遺産に登録されている姫路城は、現在お化粧中で、お城の横には巨大クレーンが作業をしていた。入場料を支払い、広い園内を散策、十字瓦やお菊井戸なども眺めて姫路城を後にした。

修復中の姫路城

書写山

登山途中の展望

仁王門

摩尼殿

大講堂

食堂

食堂の内部

常行堂

食堂と大講堂

姫路城

修復中の姫路城(クリックで拡大)

天守閣修復中の姫路城

 前の山 吉田毛無山 を見る

 次の山 三輪山 を見る

歩いた足跡  

登山口周辺の地図はこちら 兵庫県姫路市 書写山 登山口付近のMAP

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