指月山2015年(しづきやま)山口県萩市

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2024年4月14日 世界遺産 萩城跡にそびえる指月山登山を見る
2004年3月28日 桜祭りの萩城跡と指月山登山を見る
2015年1月28日

駐車場 →0:10→ 萩城址入口 →0:25→ 山頂 →0:25→ 駐車場

全歩行時間 1時間 0分

登山行程図(地図をクリックすると拡大)


 今回登るのは萩市の指月山で、10年以上前に中島篤巳先生の「山口県の山(旧版)」の完登を目指した際に登った山である。今年(2015年)のNHK大河ドラマ「花燃ゆ(主演・井上真央)」の舞台となる萩市へは、お客さんのご案内等のため昨年から何度も訪問している。そのたびに指月山、田床山、笠山と以前登った山々を眺め、今年こそはと思いながらようやく向かうことができた。

高杉晋作、吉田松陰、久坂玄瑞像 品川弥次郎、山田顕義

 明木地区から峠へ向かい、トンネルを潜れば道の駅へ着く。これまで何度もこの道の駅の前を通っているが、道の駅の見学は今迄パスしていた。今回は時間があるので立ち寄って銅像等を見学、お店の前には吉田松陰、高杉晋作、久坂玄瑞など維新の志士の銅像が置かれていた。

山県有朋、木戸孝允、伊藤博文 天野清三郎、野村和作

 道の駅を出発、萩市内に入ったところでお昼になったので、昼食を摂るためちゃんぽんで有名な「はた満」という店に入る。メニューを眺めて熟慮の末、海産物入りのちゃんぽんデラックス(デラックスにすると海産物入りとなる・麺の量は変わらず)を注文した。このお店の麺は戸畑蒸し麺と説明されており、北九州市の戸畑区で食べられる細めの蒸し麺とのこと。

北九州戸畑ちゃんぽん はた満さんのちゃんぽん

 後から来た客がちゃんぽんとラーメンのどちらにするか迷っていたら、「うちはちゃんぽん屋だ」とご主人が話し、その人もちゃんぽんの方を注文した。豚骨スープに海鮮の入ったちゃんぽんは、細麺がスープになじんでとてもおいしかった。次はラーメンを食べに来ようと思っている。なお、このお店は、サンリブの裏通りにあり、駐車場はお店の後ろ側に用意されている。

菊ヶ浜駐車場(クリックで案内) 海岸から眺める指月山(クリックで拡大)

 さて、指月山登山の開始場所だが、安心して駐車できる場所ということで、前回も利用した菊ヶ浜海水浴場の駐車場へ移動する。ただし、夏期は海水浴客が多いためか、この駐車場は有料となるのでご注意を。

笠山 遠くに遠岳山

 駐車場を出発、海水浴場まで進んで眺める指月山は、美しい三角錐。まるでミニ開聞岳を思わせる山容である。真冬なのに珍しく穏やかな日本海が目の前に広がり、北には日本一小さい火山と言われる笠山がそびえ、その東に阿武町の遠岳山、その右にアンテナの建つ田床山が存在感を見せている。

海岸を出発 橋本川沿いに進む

 菊ヶ浜海水浴場を出発、北に笠山と日本海に浮かぶ平坦な大島などを眺めながら西へ向かう。すると橋本川からの支流(運河?)の手前に出るので左折し、川沿いを南西方面へ進み、指月小橋の前で萩城へ向かって右折する。この橋を渡れば東門を通過、そのまま城跡方面へ向かう。

指月小橋を渡る お堀越しに指月山

 当日は堀の水面に風も波も無く、向かいにそびえる指月山を鏡のように映し、感動的な風景が広がっていた。しばらく指月山を鑑賞の後、西へ移動して城跡へ入る。案内によれば、国指定史蹟の萩城跡は、関ヶ原の役後毛利輝元が慶長9年(1604)築城に着手し、4年後の同13年(1608)に至って完成したものである。

萩城入口 史蹟萩城跡(クリックで拡大)

 萩市街の西北端、指月山の麓に位置し、山名をとって指月城とも呼ばれた。山麓の平城と頂上の山城とを併せた平山城である。当時輝元は隠居していたが、その子、初代藩主秀就が幼少のため、築城後も政務を執っていた。以後代を重ねること、十三代の敬親に至って、幕末多端の国事を処理するに不便なため文久3年(1863)四月山口へ移った。ついで明治七年(1874)建物のすべてが解体された。

正面に神社、登山口は左折(クリックで別角度) 神社へ参拝

 入口右に志都岐神社、左に史跡萩城址の石柱を過ごし奥へ進み、受付にて入園料210円を支払う。なお、入園料には旧厚狭毛利家萩屋敷長屋拝観料も含まれている。石垣沿いを道なりに進み、北に見える志都岐山神社の大鳥居を潜り神社へ参拝する。

志都岐山神社拝殿と本殿

 志都岐山神社は山口の豊栄・野田両神社の遙拝所を旧本丸付近へ建立したのが始まりで、その後は指月神社と称されていたが、明治15年(1882)現在の志都岐山神社となった。主神は毛利元就、隆元、輝元、敬親、元徳の5柱で、その他初代から12代までの萩藩主が祀られている。

左が天守閣跡 天守閣跡を過ごす

 前回の指月山登山は2004年3月28日、丁度桜祭りの真っ最中だったが、今回は真冬の1月末。何の行事もないため、神社境内は閑散としている。さて、肝心の指月山へ向かう。先ほどの大鳥居の前を西へ進み、左に天守閣跡を眺める。

登山口へ(クリックで拡大) 少し登って登山口を振り返る

 ここで、分岐を北西方向へ採り、わずかに進むと指月山へ730mの案内が置かれている。案内によれば、指月山は今から約300年前よりお城山と呼ばれていた。この指月山城は、犯しがたいものとして人手を加えられないままに、樹木は生長し現在ではうっそうと木々は茂り、美しい森林となっている。

仰徳神社跡と重建太祖神廟記の石碑

 さて、登山口を出発してわずかに進むと平坦な場所に出る。この付近は仰徳(こうとく)神社跡で1762(宝暦12)年、7代藩主重就によって建立され、毛利氏の始祖天穂日命(しそあめのほひのみこと)と元就・隆元・輝元・初代藩主秀就が祀られていた。1863(文久3)年、宮崎八幡宮に合祀された後、元就の霊は山口の豊栄神社に、その他は東京の毛利邸に移され、土地神だけが残った。その後、1908(明治41)年、志都岐山神社本殿の東側に移された。現在、「重建大祖神廟記」碑と「奉寄進」と刻まれた自然石の石碑が残っている。

山頂への案内 整備された階段

 登山道左の亀の背中の上にこの重建太祖神廟記の石碑が乗せられていた。この先で左に洞春寺跡・妙玖寺跡の案内を見るが、直進方向の山頂を目指す。歴史ある苔むした石段を踏み、右には苔むした石垣を眺める。急な斜面には横木の階段と手すりが用意されているので安心して高度を上げることができる。

早咲きのヤブツバキ 自然の残る散策路

 早咲きのヤブツバキを眺めながら進むが、周囲の樹林の背が高く、展望は木の間越しである。本当に大きな木が多く、人の手の入らない自然林の素晴らしさがよく分かる。前方に石垣と白壁が見えてくれば山頂は間近。間もなく左側に矢倉のある詰丸跡へ到着した。

苔むす岩と登山道 山頂の詰丸跡(クリックで拡大)

 萩城は山の名を取って指月城とも呼ばれ、ふもとの平城にあわせ山頂に詰丸を設け、狭いながら本丸・二の丸を置いて陸と海とを監視するため、矢倉数箇所・天水溜二箇所などを持つ望楼であった。残念ながら矢倉跡の白壁には落書きが多く、見るに堪えないが、この白壁が築城当時から残っているとすれば、とても貴重な文化遺産である。

矢倉跡と白壁 石組の残る詰丸

 間もなく石垣の間を通って平坦な山頂へ着く。山頂に置かれた案内によれば、指月山の山頂は要害または詰丸と呼ばれ、戦時に籠城するための、まさに最後の砦であった。要害は周囲を石垣と土塀でとり囲み、要所には矢倉を配置していた。平時には眺望の利く大小様々な矢倉から陸地と海上を監視していた。矢倉内には緊急時に備え、武器類も保管されていたようである。

歴史ある石組 二の丸

 矢倉門である要害門矢倉を抜けると、二の丸が広がる。建物は存在しないが、二の丸には監視役の執務場所である要害番所と宿所である居小屋が存在した。さらに一段高くなった東側には本丸があった。本丸には天守が存在したという記録はないが、藩主が要害登山時に儀礼空間や酒肴の場として用いた茶屋が建っていた。

用水槽跡 本丸

 二の丸と本丸との間は土塀で仕切られ、両者は棟門で連絡していた。また、本丸の東端には裏門となる埋門があった。なお、鬼門の方角にあたる北国矢倉の石垣は北東隅を欠いた石積みとなっており、興味深い。この他にも飲料や消火用の貯水施設であった用水や池、石垣石材を調達した石切場などが残っており、要害の機能や築城過程の一端をうかがい知ることができるそうだ。

本丸周辺にも木々が多い

山頂の大岩(クリックで拡大)

 山頂は大きく二段に分かれており、本丸跡は平坦でとても広い。南側へ向かうと岩が目立ち、この岩には加工しようとした形跡が今も残っている。貯水地横の大岩にも同様の加工跡が残っており、更に南東側へ向かうとここだけ展望が開けており、萩の街並みをわずかながらでも眺めることができた。この地点以外はほとんど樹間越しの展望であり、やはり自然がそのまま残る山であることがわかる。山頂にて小休止の後、下山を開始する。

山頂から眺める展望(クリックで拡大) ほとんどは木の間越しの展望

 元来た道を引き返して城跡まで下り立ち、次は天守閣跡へ向かってみる。案内によれば萩城は、関ヶ原の役に敗れた毛利輝元が防長二州・三十六万石の居城として、慶長9年(1604年)工を興し同13年(1608年)完工した。桃山初期の形式を示す。

萩城天守閣跡へ

 白亜五層の天守閣は高さ14.4m、初層は東西19.8m、南北16.2m、最上層は東西6.3m、南北5.4mである。初層は、石垣全面にわたって半間を張り出し、俯射装置になっていた。明治7年(1874年)解体まで270年間、毛利氏13代にわたり萩城の象徴として偉容を誇っていたそうだ。

天守閣跡から眺める風景(クリックで拡大)

 萩城天守閣跡の標柱に従い、石段を登ればわずかで平坦な天守閣跡に立つ。ほんのわずかな高台だが、堀の水面は無風状態で、鏡のように空を映している。遠く東には田床山がそびえているが、萩の市街は松の木に遮られて眺めることはできない。丁度萩城跡だけが萩の市街の喧噪から離れているようにも感じる。

天守閣跡から指月山 アンテナの建つ田床山

 北にそびえる指月山は相変わらず美しい山容をしており、この山はどこから眺めても美しい山である。天守閣跡を出発、東門を過ぎれば舗装道歩きで、駐車場まで引き返した。

菊ヶ浜海岸

萩城跡

詰丸跡

天守閣跡から

指月山山頂から

 前の山 祇園山 を見る

 次の山 矢筈ヶ岳 を見る

歩いた足跡  

登山口周辺の地図はこちら 山口県萩市 指月山 登山口付近のMAP

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