楠木城跡「上赤坂城跡」(くすのきじょうあと・かあかさかじょうあと)大阪府千早赤阪村 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
トップに戻る 2016年に登った山リストへ戻る 山名アイウエオ順 2016年12月12日 登城口 →0:25→ 山頂本丸跡 →0:20→ 登城口 全歩行時間 0時間45分 今回の目的の一つが楠木正成の足跡を辿る旅で、その最初が元弘の乱(1331年〜1333年)において重要な役割を果たした楠木城(上赤坂城)である。後醍醐天皇が鎌倉幕府討幕のため笠置山で挙兵、これに呼応して楠木正成が河内国下赤坂城で挙兵した。 その後、後醍醐天皇の守る笠置山は陥落、楠木正成の守る下赤坂城のみが残った。この城で楠木軍は奮戦するも多勢に無勢。楠木正成は城に火を放って金剛山へ身を隠した。一方後醍醐天皇は隠岐島へ流され、倒幕運動は鎮圧されたかに見えた。 静かに倒幕の機会を窺っていた楠木正成は千早城、護良親王は吉野で再び挙兵。楠木軍では平野将監と楠木正孝らが守る上赤坂城が主戦場となった。この上赤坂城は自然の厳しい地形を利用した中世山城で、守りは堅く、幕府軍も苦戦するが、城の水路を断ち、平野らを降伏させた。なお、同時期に吉野では護良親王が敗れている。 これにより、楠木方はわずかな軍勢で籠城する千早城を残すのみとなった。この千早城については、次の千早城跡の所で説明する。 奈良県御所市から国道309号を通って大阪府千早赤阪村へ。大阪府に入る前に葛城水分神社へ参拝、県境を越えて千早赤阪村に入ってからは千早赤阪村立学校給食センターを目印に楠木城跡(上赤坂城)へ向かう。左側へ注意を払っておけば、やがて楠木城跡への案内と周辺案内図を見つけた。この案内に従い分岐を左折すれば、わずかで楠木城跡への登山口(登城口)へ着いた。
「此山頂上赤坂城」の石柱を確認して駐車場を出発、すぐに本丸まで20分の案内を過ごす。更に奥へ向かうと一の木戸跡があり、その横に建つ案内を眺めて楠木城跡の知識を仕入れる。
案内を過ごして少し進むと、足下には道案内の石仏や墓石が横たわっている。落ち葉の堆積した植林帯を進み、進路が少し右にカーブを描き始めると、一の木戸からは50mで二の木戸を過ごす。周囲に矢竹などを眺めながら緩やかに高度を上げる。
一箇所だけだが岩の露出した場所を過ごし、道の中央部がえぐられたような道をゆっくり進む。相変わらず足下には落ち葉が堆積している。二の木戸から200mで三の木戸を通過、植林帯の下だが、わずかに黄色く色づいた葉っぱを眺めることができた。
当時の堀切跡 この先で頭上の開ける場所に着く。この地点は当時の堀切の跡と思われ、後世に土盛りがされたのだろう。間もなく左に郭跡を過ごすと、木の根の目立つ植林帯の下に出る。ヒノキの勢いが強くなり、根が地上に露出したのだろう。
もう少し進むと進路は右へ向き、大規模な郭跡を見ることができた。この付近が二の丸跡だろう。本丸への案内に従い、郭跡を眺めながら更に進むと、左下に金剛山への登山道が分岐していた。 二の丸跡 この分岐を右に採り、わずかの坂を登れば広い本丸跡へ出る。進路を右に採り、平坦な道をわずかで「楠木本城址」と「上赤坂城址」の2本の石柱の立つ山頂へ着いた。山頂からは北西方向に展望が開け、眼下に富田林の街並みを眺めることができた。 山頂から周囲に広がる展望をしばらく眺めて下山を開始。元来た道を引き返し、駐車場へ着いた。お昼まで時間があるので楠木正成の足跡を辿る。次に向かったのは建水分神社、この横には楠木正成を祀る南木神社が建っていた。
次に向かったのは楠木正成生誕地、併せて楠木正成産湯の井戸を見学。更に楠木中学校横の下赤坂城へ。この下赤坂城は道路の横に位置しており、簡単に着く事ができた。また、眼下には棚田百選に選ばれた下赤坂の棚田が広がっている。 昼食は千早城跡へ向かう途中で営業されている手打ちそばのそば縁(えに)。ここで冷たい辛味大根のおろしそば、温かいみぞれそばを注文した。辛味大根はピンク色をしており、最初はデザートかと思ったくらい。 手打ちそばのそば縁(えに) 辛味大根のおろしそばとみぞれそば この大根はつーんと鼻にきて、とても美味しいそばだった。あたたかいみぞれそばには大根が入っており、大根の風味が良く、こちらも美味しいおそばだった。腹ごしらえも済んだのでいよいよ千早城跡へ向かう。 金剛山 楠木城跡山頂 楠木城跡から富田林の街並み 下赤坂城跡 前の山 武奈ヶ岳 を見る 次の山 千早城跡 を見る 登山口周辺の地図はこちら 楠木城跡(上赤坂城跡) 登山口付近のMAP |