金剛山(こんごうざん)奈良県 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
トップに戻る 2013年に登った山リストへ戻る 山名アイウエオ順 2013年8月16日 ロープウエイ金剛山駅 →0:10→ 大阪府最高点 →0:10→ 一等三角点(湧出岳) →0:15→ 金剛山葛木神社 →0:25→ 金剛山駅 全歩行時間 1時間 0分 奈良県の登山と観光を続けている。本日目指す山は、奈良県御所市と大阪府南河内郡千早赤阪村の間にそびえる金剛山地の主峰の金剛山である。標高1,125mで、最高地点は葛木岳と呼ばれ、御所市の葛木神社の本殿裏だが、神域となっているため、神社手前に最高地点の標柱が置かれている。 また、この他に三角点の置かれた湧出岳1,112m、大日岳1.094m等のピークがあり、大阪府の最高地点(1,053m)もこの山域内に案内されている。大阪府の千早赤阪村からは金剛山ロープウエイが山上のちはや園地まで架けられており、遊歩道が整備されているため、家族連れでも簡単に山頂へ立つことができるハイキングコースである。 登山の前に、「青丹よし寧楽の京師は咲く花の薫ふがごとく今盛りなり」と詠まれた古都奈良の見学をしておく。最初に向かったのは古事記の編纂者の太安万侶の墓で、奈良市此瀬町へ向かう。着いたところは本当に茶畑で大和茶の産地だった。急な坂を少し登るとすぐに太安万侶の墓所へ到着した。
案内によれば、太安万侶墓は、東山山中の田原の里に所在する奈良時代の火葬墓である。昭和54年1月、竹西英夫氏によって茶の改植中に発見されたもので、出土した銅製墓誌により、古事記の編纂者として有名な太安万侶の墓であることが明らかになった。 太安万侶墓所 墓誌には「左京四條四坊従四位下勲五等朝臣安萬侶以癸亥年七月六日卒之養老七年(723年)十二月十五日乙巳」の四一文字が刻まれ、居住地、位階と勲等、死亡年月日、埋葬年月日を記してある。 墳丘は直径4.5mの円墳と推定され、埋葬施設は中心部に墓坑を掘り、底に木炭を敷いて墓誌を置き、その上に木櫃を安置し、四周と上面を木炭で覆った木炭槨であった。さらに、その上の墓坑全体にうすく木炭を敷いた後、砂質土を版築状に硬くつき固め、木櫃の中には火葬骨、真珠等が収めてあった。
奈良時代上級官人の墓としては、このように規模、構造、遺物の出土状況等が明らかにされた例は希であり、昭和55年2月19日史跡に指定されたそうだ。太安万侶の墓は円形に石垣で囲まれており、眼下に広がる茶畑を見下ろしている。
太安万侶の墓所を出発し、次は世界遺産に指定されている春日山原始林の地獄谷石窟仏へ向かう。高円山ドライブウエイに入り、途中で高円宮憲仁親王殿下お手植えの柊を眺め、展望所から眼下を見下ろすが、奈良市内は少し霞み気味である。
地獄谷石窟仏の案内を見つけて駐車スペースに車を置き、地獄谷石窟仏へ600mの案内に従い遊歩道に入る。途中には掘りかけの石仏などもあり、この地が昔から聖域であることをうかがわせる。案内によれば、御蓋山(283m)東の花山(497m)芳山も含め、春日大社背後の山を総称して春日山という。平城京の昔から都人に散策の地として親しまれてきた山で、古歌にも数多くうたわれている。 史跡 地獄谷石窟仏 仁徳天皇の承和8年(842年)以来、春日大社の神域として狩猟伐採が禁じられてきたため、原始林となり、国の天然記念物に指定されている。間もなく地獄谷石窟仏の前へ到着、案内には、『地獄谷石窟仏は、凝灰岩をくり抜いた石窟で、側面に仏像が線刻されている。聖(ひじり)が住んでいたという伝承があり、聖人窟ともよばれる。 地獄谷石窟仏の風景 向かって右側壁、妙見菩薩座像、奥壁右 十一面観音像、中央 廬舎那仏、右 薬師如来。弥勒仏は石仏で作られることから、中央は弥勒仏という各諸説がある。今も彩色などが残っている。』と記されている。
ドライブウエイまで戻り、今度は反対側の滝坂の道へ入る。この道は、春日山と高円山の谷川沿いに奈良の街と柳生を結ぶ近道として開かれた道で、柳生街道とも言われる。昔は人の往来も多かったが、今は通る人もほとんどなく忘れられようとしている道である。
首切地蔵の風景 江戸時代初期、当時の奈良奉行が作らせたという石だたみの道が今も残り、また朝日観音、夕日観音、春日山石窟仏(穴仏)、首切地蔵等石仏の宝庫であり、東海自然歩道になっている。すぐに穏やかな湖面の地獄谷新池に到着、この場所は春日山石窟仏と首切地蔵方面の分岐である。首切地蔵方面へ向かって少し坂を下ると、すぐに首切地蔵の前へ着く。
荒木又右衛門がためし斬りしたと伝えられる首切地蔵で、彫刻の手法から鎌倉時代の作と言われている。この柳生街道は、昭和の初めまで、柳生方面から奈良へ米や薪炭を牛馬の背につけて下り、日用品を積んで帰ってゆくのにつかわれたそうだ。
朝日観音の風景 休憩の後、苔むす石畳の道を下ると朝日観音の前に着く。対岸の岸壁に掘られている朝日観音は、早朝高円山の頂からさしのぼる朝日に真っ先に照らされていることから名付けられたものである。実際には観音ではなく、中央は弥勒仏、左右は地蔵仏である。 夕日観音 夕日観音の風景 この石像には文永2年(1265年)の銘があり、この下の夕日観音と同じ作者であると説明されている。絶壁にどのような方法で加工したのか、そちらの方も気になる。さて、朝日観音を過ごし、更に柳生街道を下ると、夕日観音の見える場所に着く。 夕日観音 寝仏と夕日観音の風景 いくつかの場所に掘られた夕日観音を眺め、少し坂を下ると柳生街道の右側に岩が転がっており、反対側に回ってみると、これが寝仏だった。じっくり眺めていると、梵字も横向きに書かれているので、この石仏は立っていたものが横に倒れたものかも知れない。
春日山石窟仏(穴仏)の風景 寝仏の見学で、柳生街道の散策は一応終了。元来た道を引き返す。地獄谷新池まで戻り、春日山石窟仏(穴仏)へ向かう。少しの坂を登れば春日山石窟仏へ到着、平安末期の久寿2年(1155年)8月20日に今如房願意と刻名のある石窟仏は、東西二つの凝灰岩質の石窟から成り、東窟は下部四画に仏像を彫りだした石柱を中央にして、第一洞(東寄)と第二洞(西寄)とに分かれている。 春日山石窟仏(穴仏) 第一洞には東側の壁画に菩薩形立像三体と天部の立像一体。第二道には、西側の壁画に地蔵菩薩立像四体と天部像一体が刻まれ、西窟には、大日如来を中心とした金剛界五仏が残されているそうだ。春日山石窟仏を見学後、ドライブウエイまで戻り、舗装道を辿って駐車地まで戻った。
多神社の風景 次は古事記めぐりで、太安万侶が合祀されている磯城郡田原本町の多神社へ向かう。この多神社は、正式には多坐弥志理都比古(おおにいますみしりつひこ)神社で、祭神は神武天皇・神八井耳命・神沼河耳命・姫御神・太安万侶である。
多神社へ参拝し、次は太安万侶の祀られた小杜神社へ向かう。多神社の入口まで戻って、大きく回り込み小杜神社へ参拝。この神社は郷社で、社殿自体は大きいものではない。鳥居まで戻り、少し先へ進むと立派な碑がおかれ、古事記献上千三百年記念、太安萬侶卿と刻まれていた。
念願の多神社、小杜神社への参拝を無事終えたので、最後の目的地の金剛山へ向かう。奈良から大阪へ入り、大阪府唯一の村で、楠木正成の出身地、役行者が修行したと言われる金剛山の麓、千早赤坂村へ向かう。その途中で河内長野市の観心寺に立ち寄ってみる。
案内によれば、観心寺は楠木正成公の菩提寺であり、楠木正成および南朝ゆかりの寺としても知られている。境内にある建掛塔(たてかけとう)は三重塔の一重目だけが建てられ、未完成の建築である。伝承によれば、楠木正成は、建武の新政の成功を祈願して三重塔の建立を発願したが、造営なかばで湊川の戦いで討ち死にしたため、建築が中断されたそうだ。
勇壮な馬上姿の楠木正成公を眺めて、金剛山へ向かう。登山口を過ごし、間もなく道路終点の金剛山ロープウエイ駐車場へ到着した。本日は時間が無いので、ロープウエイで千早駅から金剛山駅まで行き、山頂を目指す。
ロープウエイからは、晴れていれば大阪市内が一望なのだが、眼下に広がる展望は少し霞み気味である。すぐに金剛山駅へ到着、案内に従い山頂を目指す。整備された遊歩道を辿り、左にトイレを過ごす。 遊歩道が整備されている 金剛山野草園にはカタクリやコブシの花が咲くそうなので、春の行楽シーズンには多くの観光客が訪れることだろう。すぐに現れる分岐は展望台を経由する方向へ進路を採り、四季の谷と案内される場所を通過する。
間もなく三階建の「ちはや園地金剛山展望所」の設置された平坦な場所に着く。但し、本日の展望は霞気味なのでそのまま山頂を目指して進む。少し坂を下り遊歩道を進むと左右の分岐となり、直進は金剛山山頂と葛木神社、左側が小さい字で大阪府最高地点と案内されている。そこで、左側の道を採り、少しの坂を登ると平坦な大阪府最高地点の標高1,053mへ着いた。ただし周囲には木々の背が高く、展望を得ることはできなかった。
すぐに遊歩道に戻り、広い道を進むと再び左右の分岐が現れ、右は一等三角点への近道で、左は山頂へ続く道と案内されている。ここでは最初に三角点峰の湧出岳へ向かうため右道を採る。こちらの道はワイルドな道で、途中には倒木もあり、坂の傾斜も急である。
左右に笹の茂る狭い道を辿れば、周囲に植林帯の背が高い。やがて、左に金剛山を遠くから眺める際に目印となるアンテナが現れた。更に先へ進むと二つめのアンテナを通過、この先の右に葛木二十八宿第二十一経塚が祀られている。
一等三角点の置かれた湧出岳と周囲の風景 反対側には金剛山展望塔が設置されており、夜間に灯が灯されているようだ。展望塔の先へ向かうと一等三角点の置かれた湧出岳へ到着、標高は1,112mである。山頂の三角点に触れたので次は金剛山の山頂を目指す。
坂を下り、出迎え不動さんの前を通過、法華経一字一石塔を眺めて葛木神社の大鳥居を潜る。仁王杉の前を通り、少しの坂を登ると葛木神社手前に着く。最後に急な石段を登り切れば金剛山山頂の葛木神社へ到着した。この地点は標高1125m、金剛山の最高地点である。
山頂に祀られている葛木神社の主祭神は葛木一言主大神、副祭神は大楠公、後醍醐天皇その他。案内によれば、『日本の名峰金剛山は、大阪、奈良、和歌山にまたがる金剛生駒紀泉国定公園の最高峰であって、海抜1,125mである。古来高天(たかま)山とも呼ばれ、神武天皇大和平定の際、葛(くず)の網をきせて土俗を掩殺(おおい)せられてから葛城という名がついたと言われている。
「人皇第十代崇神天皇戌寅7年 御造営神戸祠を附し給う」とあり、神社の創始は約二千年前の崇神天皇の御代で事代主を奉祀していた。460年(雄略天皇4年)、雄略天皇が葛城山へ鹿狩りをしに行ったとき、付き従う官吏たちは紅い紐の付いた青染めの衣を着ていた。そのとき、天皇一行と全く同じ恰好の一行が向かいの尾根を歩いているのを見つけた。 金剛山山頂(1,125m)に祀られた葛木神社 金剛山葛木神社の風景 雄略天皇が名を尋ねると「吾は凶事も一言で、吉事も一言で言い分ける神。葛城の一言主大神である」と答えた。天皇はすっかり恐縮され、弓や矢のほか、官吏たちの着ている衣服を脱がさせて一言主大神に献上された。このとき一言主大神は、喜びの柏手を打っての捧げ物を受け取り、天皇の一行をお見送りになった。 葛木神社周辺の建造物 葛木神社は葛木一言主大神を奉祀し、一言だけ願いをすれば叶う神として有名であり、日本で初めて手を拍って物を受け渡しされた故事により、拍手の元祖、一言恵比須とも言われ、商売繁盛の福の神とも称せられている。 葛木神社境内の風景 私はこの案内をよく確かめず、沢山のお願いをしてしまった。とはいえ、有名な金剛山の山頂へ無事到着し、立派な葛木神社へ参拝出来たのはとても幸運なことであり、山頂の葛木神社はとても威厳のある神社である。 古事記の編纂者 太安万侶が合祀されている多神社 古事記の編纂者 太安万侶の祀られた小杜神社 二上山から眺める葛木山と金剛山 葛木山の先に、金剛山山頂に建つ二つのアンテナが見えている 仁王杉 金剛山葛木神社 前の山 二上山 を見る 次の山 穂高岳・涸沢岳 初日 上高地から涸沢へ を見る 登山口周辺の地図はこちら 奈良県御所市・大阪府太子町 金剛山 登山口付近のMAP |