八天岳(はってんだけ)長崎県佐世保市
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山名アイウエオ順
2017年5月4日
登山口 →0:35→ 山頂 →0:25→ 登山口
全歩行時間 1時間00分
登山行程図(地図をクリックすると拡大)
昨日までに佐賀県・長崎県の九州百名山を踏破したので、今日からは事前に選定していた長崎県の名山へ向かう。最初は佐世保市の八天岳で、この山は佐賀県有田町との県境に位置している。登山口へ向かう途中の武雄市では、昨日登った黒髪山を眺めることができた。
以前登った黒髪山
八天岳から国見山へ続く山脈
棚田
国見湖畔公園
登山口に近い栗ノ木峠を目指して佐賀県側から進むが、これは後で見直すと遠回りだったみたいで、栗の木峠方面へは長崎県側からでなければ行くことができない。国道495号を走っていると、やがて国見湖畔公園に着いた。
登山口へ続く道
池越しに八天岳へ続く山脈
ここで登山者に国見峠について聞くと、ここから行けるとのこと。そこで登山準備をして行こうとしたが、地図を見ると違和感がある。そこで再度確認すると、この場所を登山口にすると遠回りになることが解った。そこでトンネルを潜って長崎県に入り、旧495号を走って八天岳登山口へ着いた。ここで適当なところへ車を置いて登山を開始した。
八天岳登山口
コンクリート舗装
この八天岳は山頂まで舗装されており、車に乗ったまま山頂に着くこともできるが、本日は登山なのでしっかり歩くことにした。登山口を出発、進路を南へ採る。足下にはコンクリートと砂利道の合わさった道が続いており、この道ならやはり車でも大丈夫のようだ。
背後に送電鉄塔と国見山へ続く山脈
植林帯へ向かう
すぐにコンクリート舗装の道に変わり頭上を覆っていた樹林が切れてとても明るい。快晴の空の下を歩けることはとても幸せなことである。緩やかな傾斜の道をマイペースで進む。背後には送電鉄塔と平坦な山脈が続いている。
黄色の花
歴史あるコンクリート舗装
(クリックで拡大)
送電鉄塔
伐採地
足下に咲く花を眺めながら進むと、間もなく植林帯の中に入る。美しい木漏れ日を眺めながら進むと、頭上に送電鉄塔を過ごす。間もなく樹林の伐採された所へ着き、ここでも送電鉄塔を過ごし、少し緩やかな坂を下れば次は自然林の中に入る。
自然林を進む
八天岳の案内
右に八天林道を過ごす所で、進路を左へ採る。八天岳の案内に従い更に緩やかな傾斜の道を辿れば、右にアンテナ施設の置かれた八天岳の山頂へ到着した。この施設の反対側には旧海軍の砲台跡が残っていた。
山頂のアンテナ施設(クリックで拡大)
このような軍事遺構も何れ朽ちてしまうのかも知れない。八天岳の山頂からは周囲に木々の背が高く、展望を得ることはできなかった。下山は元来た道を引き返し、八天岳登山口まで引き返した。
山頂の軍事遺構(クリックで拡大)
今回長崎県へ来た一番の目的は、八天岳へ登ることだった。その八天岳には八天狗と大蔵の相撲の民話が残っている筈だったのだが、この山に残っているのは別の民話である。
遠征を終えて自宅に帰り、八天岳について調べてみると、八天狗の民話の山は諫早市の八天岳で、今回の八天岳は佐世保市の山。なんと、もう一度長崎県へ行かなければならなくなってしまった。
なお、佐世保市の八天岳に残るオサイ峠、オサイ観音の物語は次の通りである。
唐船城譜代の臣で相神浦親に恩顧があった山本右京は、相神浦親に反旗を翻そうとする五郎盛の謀略を許すに忍びず、元亀2年(1571年)12月29日日深夜に5歳の勝之助と妊娠中の妻お才を連れ、相神浦の飯盛城へと向かった。
ところが、一月で雪の積もった峠越えは妻と子には厳しく、転んだ拍子にお才は産気づいてしまった。運良く出合った木こりの家にお才と子を預け、自らは飯盛城へ走った。この報告を聞いた城方は柚木の相当ヶ原で五郎盛の軍勢を迎え撃ち勝利した。
謀反を知らせたあと、右京は木こりの家へ引き返したが、十分な処置ができなかったのだろう、お才は産後の出血が止まらず帰らぬ人となっていた。右京はその側で泣いている赤子を抱き、妻の亡骸に手を合わせた。
その後、毎年の除夜、付近の街道で悲しい女の泣き声が聞こえたり、火の玉が見えるなど不思議なことが起きるので、村人はきっとお才の魂が残っでいるのであろうと、飯盛城と唐船城が見えるお才の峠(佐賀との県境にある)にお堂を建ててその霊をなぐさめた。これがお才観音の由来とされ、安産の守りとして今も近隣からのお参りが後を絶たない。
コンクリート舗装の砲台道
八天岳山頂のアンテナ施設
旧海軍の軍事遺構
前の山
志々伎山
を見る
次の山
国見山
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歩いた足跡
登山口周辺の地図はこちら 長崎県佐世保市 八天岳
登山口付近のMAP
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