三沢要害山(みさわようがいやま)島根県奥出雲町

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2010年12月12日

登山口駐車場 →0:15→ 三沢要害山(本丸) →0:10→ 登山口駐車場

全歩行時間 0時間25分

 島根県の百山踏破を目指しての山歩き、現在までに約八十山を登っている。今回も山口県の山(山と渓谷者)の著者中島先生のご案内により、奥出雲町出雲三成の三沢要害山へ。

 奥出雲そば街道、横田の一風庵を出発、次に向かう三沢要害山は、出雲の国最強と言われた三沢氏の居城跡である。出雲三成から国道432号を西へ進み、仁多中学校の先の交差点を右折する。交差点には要害山への案内標識が立っているので、左側を注意していればすぐにわかる。

仁多中学校先の交差点を右折

案内の立つ分岐を右折

 そのまま道なりに進むとT字路へ着くので左折、ここにも要害山への案内が置かれている。すぐに右への分岐が現れ、手前には県指定史跡三沢城跡(要害山)の大きな案内図と周辺観光案内が置かれている。この場所から要害山まですでに900m、ここから歩いても良いのだが、案内図を見ると駐車場はもっと先にあるようだ。

三沢城跡案内標識

成田館址

 そのまま舗装路を進むと、最初に現れる史跡は成田館址(なりたかんし)、ここは平坦な畑である。更に進むと頂上まで400m標識を通過、さすがに残りの距離が心配になる。すぐに整備された駐車場に到着、従って頂上までは残り400mを切っていると言うことだ。

要害山登山口駐車場

要害山登山口

 駐車場の正面には立派な倉が見えているが、これは無住の民家のもののようだ。また、駐車場横にはトイレも整備されているが、来年3月までは使用禁止となっている。遊歩道入口には案内板などがしっかり整備されており、中世山城の遺構などについて詳しく説明されている。

三沢城跡説明版(写真をクリックすると拡大)

登山口から背後に広がる展望

 入口を出発、偽木の階段を進むと最初に現れるのが大手門石垣、とても立派な石垣にまず圧倒された。機械も何もなかった時代に、こんな大きな岩を組む技術を確立していたことは、新鮮な驚きである。次に現れるのは平坦な二の丸で、周囲は植林帯になっている。 右に大きな倉庫のような穴を過ごし、再び偽木の階段を登る。このあたりは直線となっており、城を守る側にとっては、相手方が一列縦隊となるので攻めやすくなっている。この先で迷路石垣を折り返し、次の分岐が七曲りである。

大手門石垣

二の丸

倉庫のような穴

七曲りに向かう坂

迷路石垣

七曲り

 七曲がりから左方向に大きく迂回すると本丸下の平坦な場所に出る。ここにはりっぱな三沢城跡碑と説明版が置かれている。本丸城濠を抜け右の鳥居丸へ向かうと最初に現れるのが諏訪社壇、この横には大木が倒れていた。この先で古井戸を過ごせば広く平坦な鳥居丸、そしてその先は鳥居丸城濠。周囲を見回せばこの場所はまさに守りやすい要害山である。

城跡碑(写真をクリックすると説明)

諏訪社壇

古井戸

鳥居丸

 

鳥居丸(左)と本丸(右)

 鳥居丸から本丸へ行くと、中央付近に建物が建っており、これが懐古堂である。山頂先には三等三角点、三沢城跡碑が置かれ、足下には特徴的な亀岩が横たわっている。更にその奥には石仏も鎮座されており、なかなかにぎやかな山頂である。

懐古堂

三沢城跡碑

亀岩

石仏

 山頂からは北西に仏経山、右に大黒山、更に岩伏山、八雲山や島根半島が一望、また東には霞気味だが三郡山、右に向かってアンテナの立つ城山、玉峰山、船通山に道後山、猿政山、鯛ノ巣山、大万木山など中国山地の名峰がずらり顔を見せている。簡単に登れる三沢要害山だが、その展望は素晴らしい。

北の展望

南の展望

正面には伊賀平山

 

三沢要害山山頂から眺める風景

 懐古堂内には三沢氏の年表も掲示されており、「1302年信州飯島郷より清和源氏の流れを汲む飯島為長(為仲)、三沢庄雨川に来住。」「1305年仁多郡はもとより島根半島まで一望できる要害の地、鴨倉山に三沢城を築城して移り、姓を飯島から三沢に改める。」などと記載されている。

十兵衛担

三沢池(写真をクリックすると説明)

 山頂にて周囲の展望を眺めた後、要害山を下山する。途中の二の丸付近から北への分岐に入ると十兵衛担(じゅうべいない)を通過、この先で水の手口を過ごすと三沢池に着く。池についての説明を眺めると、やはり出雲は神の国であることがわかる。なお、この水は水質検査に合格しており、飲用に適となっている。三沢池を出発、少し下りればすぐに駐車場へ到着。三沢要害山は登山と言うより史跡巡りのようなものであった。

山県そばの牛そば

 時刻は午後4時、まだそば屋さんは開いているので奥出雲そば街道へ。今回は山県そばへ行き牛そばを注文。そばの上にはたくさんの牛肉が乗っており、とても豪華なそばである。当然あっという間に完食、やはり出雲そばはコシもあり最高である。当分奥出雲通いが続きそうだ。

懐古堂に掲示してある三沢城略年表は次の通り

1302年 信州飯島郷より清和源氏の流れを汲む飯島為長(為仲)、三沢庄雨川に来住。

1305年 仁多郡はもとより島根半島まで一望できる要害の地、鴨倉山に三沢城を築城して移り、

       姓を飯島から三沢に改める。

1338年 大原郡香折新宮地頭職を獲得す。

1391年 明徳の乱にて為忠、為元出陣。

1475年 応仁の乱に六代為清、為季、為通出陣。

1509年 七代三沢為忠、横田に藤ヶ瀬城を築く。

1540年 尼子軍に従い毛利の吉田城を攻撃、為幸は三沢十勇士を引き連れ毛利本陣を襲う。

1558年 九代為清が石州に出陣中、高野山城主、阿井を通過、留守居役布廣氏これを破る。

1560年 三沢氏、毛利氏に降礼をとりこれより後毛利に従う。この年尼子方の高尾城、馬木城を落城させる。

1566年 三沢為清・為虎、毛利軍に従って富田城を攻撃する。

1578年 上月城攻撃に、為清、為虎は毛利軍に従い城を囲む。

1582年 秀吉と毛利の攻防戦備中高松城の水攻めに参戦する。

1589年 三沢の威勢を恐れた毛利の甘言により一族郎党共に芸州に移され、三沢為虎、長州に一万石を与えられる。

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歩いた足跡  

登山口周辺の地図はこちら 島根県奥出雲町 三沢要害山 登山口付近のMAP

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