古城山(こじょうやま)奈良県奈良市

トップに戻る           2015年に登った山リストへ戻る        山名アイウエオ順

2015年11月2日

柳生バス停 →0:06→ 山頂 →0:04→ 柳生バス停

全歩行時間 0時間10分

登山行程図(地図をクリックすると拡大)

 笠置山の戦いは、鎌倉時代後期の元弘元年(1331年)9月に現在の京都府相楽郡笠置町において、鎌倉幕府打倒を企てる後醍醐天皇と、鎌倉幕府との間で行われた戦いである。後醍醐天皇は、この戦いに負けて隠岐の島へ流されるが、後に楠木正成、赤松則村等の協力を得て鎌倉幕府を滅亡させ、建武の新政を行った。

十兵衛杉の手前から眺める古城山 十兵衛杉

 笠置山の戦いの際、後醍醐天皇のもとに馳せ参じた武士の中に播磨守永珍がおり、奈良市にそびえる古城山において、天皇方の糧道を確保するため幕府側と戦った。山麓の峠の数珠口坂では、北条の軍勢と戦った13人の勇士が戦死したという。永珍はこの功によって大和国小楊生庄の領主となり、柳生氏と名乗ったのが、現代まで続く柳生氏の始まりである。

古城山登山口の柳生バス停 鉄製の階段を登る

 さて、歴史ある古城山の登山口は、奈良交通の柳生バス停で、鉄製の階段が目印である。階段をわずかに登れば、落ち葉の敷き詰められた緩やかな傾斜の遊歩道が始まる。杉の植林帯の中を進むと、左に明確な堀切(曲輪を区画したり分断するため、峰や尾根を堀で切った防御手段)が残っている。

ふかふかの落ち葉 明確な堀切
曲輪跡 東屋の建つ平坦地

 堀切を過ごし、更に坂を登ると目の前に平坦な広場が現れる。この付近が城を構えた場所であろう。一段高い所には13振の刀を奉安した剣塚と宝篋印塔が立ち、当時の面影を今に伝えている。現在は周囲に樹木の背が高く、展望を得ることはできないが、小高い場所なので、幕府側と戦うには有利な場所だったのだろう。

古城山山頂 13振の刀が奉安された剣塚

 山頂の東屋には、柳生の里について次のように説明されている。

 ここは古城山、剣塚のほとり。今から600年の昔、後醍醐天皇が笠置山に潜行のみぎり、柳生家の先祖が忠勤をぬきん出て、古城山に陣を張ったという。柳生谷を眼下に眺め、十兵衛杉、旧家老屋敷なども広い視角の中にある。

山頂風景(クリックで拡大)

 柳生永珍から8代後の柳生宗厳(石舟斎)は、徳川家康に招かれ無刀取りを披露、家康より兵法指南役を求められたが、高齢のため辞退。代わりに五男の宗矩を推挙した。柳生宗矩は徳川家康、秀忠、家光の三代に仕え、柳生藩は一万石の大名にまで栄進した。そのすべてはこの地より始まった。

柳生家菩提寺の芳徳禅寺と墓所

 古城山登山の後は周辺散策。円成寺から剣聖の里「柳生」へ続く石仏の道を観光した。忍辱山円城寺は爽やかな空気に包まれた古刹で、この寺の静寂な清々しさには、日常の雑事から離れて安堵の心を与えるものでる。

円成寺本堂 運慶作大日如来座像の安置された多宝塔

楼門 国宝の春日堂と白山堂

 また、柳生の庄では、柳生家菩提寺の芳徳禅寺、十兵衛杉柳生藩陣屋跡、柳生藩家老屋敷、天石立神社などの見所を観光した。しかしながら一番印象に残ったのは、昼食を頂いた定食の店。こんなに美味しい昼食を食べたのは久しぶりである。

あたや地蔵 ほうそう地蔵

天石立神社御神体 一刀石

柳生藩陣屋跡 豪華昼食

円成寺の紅葉

古城山

剣塚と宝篋印塔

芳徳禅寺の紅葉

 前の山 虎ヶ岳・烏帽子岳 渓月院〜常安寺立岩コース を見る

 次の山 虎ヶ岳 常安寺正面コース を見る

歩いた足跡  

登山口周辺の地図はこちら 奈良県奈良市 古城山  登山口付近のMAP

登山リスト(あいうえお順)に戻る

2015年に登った山のリストへ戻る

トップに戻る