田原坂(たばるざか)熊本県熊本市

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2016年 1月31日

豊岡眼鏡橋 →0:25→ 田原坂公園

全歩行時間 0時間25分

登山行程図(地図をクリックすると拡大)

 山口県に本店のある銀行のバトンミントンのクラブチーム、「ACT SAIKYO」が、熊本県で日本リーグの試合をするというので、観戦ツアーに参加。土曜日と日曜日の午後、迫力ある試合を観戦。試合後は路面電車に乗り込み、熊本市内の観光をした。

バドミントン日本リーグの観戦

 わざわざ熊本市まで来たので、日曜日の午後の試合の前までの時間を利用して、西南戦争最大の激戦地、田原坂見学をする。

JR木葉駅 有栖川宮督戦の地(クリックで拡大)

 最初に向かったのはJR木葉駅で、この付近は官軍の拠点となった場所である。駅から少し高台へ移動し、有栖川宮督戦の地へ着くと、小高い場所からは田原坂が一望。当時もこのあたりから戦況を眺めていたのだろう。

有栖川宮督戦の地から眺める田原坂(クリックで拡大) 田原坂攻撃官軍第一線陣地址

 木葉駅から北へ進み、国道208号へ着けば進路を東へ採る。ここで右側に注意していると、「田原坂攻撃官軍第一線陣地址」の石碑が立っている。更に国道を東へ進み、田原坂公園入口交差点を右折すれば、左に豊岡眼鏡橋が見えてくる。この眼鏡橋には享和2年(1802)10月吉日の印刻があり、年号のはっきりしている石造眼鏡橋では、熊本県内最古の橋と言われている。

豊岡眼鏡橋(クリックで拡大)と九州自然歩道の案内

 眼鏡橋を過ぎると左に田原坂へ続く旧道が見えてきた。そこで、私はこの眼鏡橋より歩行を開始した。田原坂公園へと続く道は九州自然歩道で、公園までは約1.4kmの行程である。

田原坂公園入口と一の坂公園

 西南の役「田原坂」と書かれた案内を眺めて緩やかな傾斜の坂へ向かう。左に駐車場を兼ねた一の坂公園を過ごすと、右に石垣、左に竹林が続く。道路が蛇行しているため前方が見えにくく、歩いている場所は凹んでいるので上から攻撃を受けるとひとたまりも無いことは明白である。

蛇行する一の坂(クリックで拡大)と二の坂

西南の役戦没者慰霊碑と伍長谷村計介戦死の地の碑

 やがて左右が開けてくれば二の坂へ入り、坂の傾斜が緩まる。但し、道は依然として蛇行が続き、前方を見晴らすことはできない。左に西南の役戦没者慰霊碑と伍長谷村計介戦死の地の碑を過ごせば、いよいよ三の坂に入る。

三の坂

 三の坂はほとんど平坦な道なのだが大きく蛇行している。三の坂から坂の頂上まで、ほんのわずかな距離だがこの付近が一番の激戦地、田原坂の戦いは3月7日から17昼夜続き、その内7日間は雨中の戦い。「雨は降る降る 人馬は濡れる 越すに越されぬ 田原坂」と、民謡田原坂にある通りの菜種梅雨。

史蹟田原坂と美少年像(クリックで拡大)

 旧式の先込銃が主力の薩摩軍は、火薬が濡れて銃撃に苦労したが、抜刀隊による白兵戦では奮戦した。政府軍が田原坂の戦いにおいて消費した弾薬は1日平均32万発と言われており、銃弾と銃弾が空中でぶつかり合ってできた「かちあい玉」もたくさん見つかっている。

田原坂崇烈碑と眼下に広がる展望(クリックで拡大)

 坂の頂上は平坦な広場で、手前には美少年像が建立されている。足下の石碑には、馬手(めて・右手)に血刀 弓手(ゆんで・左手)に手綱 馬上豊かな美少年と刻まれている。広場を南に向かえば、田原坂激戦と勝利の意義の刻まれた田原坂崇烈碑が立っている。

西南の役戦没者慰霊碑と薩摩塚

 公園からは眼下にのどかな田園風景が広がっているが、この標高差60mこそがこの地を要衝の地としている所以である。公園広場から南には、土壁に弾痕の残る家が展示され、その横には田原坂資料館が建っていた。そこで、資料館に入り、田原坂の戦いの貴重な資料を見学した。

記念館前の展望地と展望(クリックで拡大)

弾痕の家(クリックで拡大)と田原坂西南戦争資料館

 資料館の見学後は進路を南へ採り、七本柿木台場薩軍墓地と七本官軍墓地へ参拝。最後に田原坂駅の位置を確認して史蹟田原坂の見学を終了した。

七本柿木台場薩軍墓地と七本官軍墓地

JR田原坂駅と八代行きワンマンカー

バドミントン日本リーグ

有栖川宮督戦の地

有栖川宮督戦の地から眺める田原坂

豊岡眼鏡橋

田原坂入口

一の坂

美少年像と田原坂の戦いを観てきた巨木

田原坂公園から眺める展望

弾痕の家

 前の山 経塚岳 を見る

 次の山 四王司山・勝山周回 を見る

歩いた足跡  

登山口周辺の地図はこちら 熊本県熊本市  登山口付近のMAP

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