吉田郡山城跡(よしだこおりやまじょうあと)広島県安芸高田市

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2015年 5月 9日

安芸高田市歴史民俗資料館 →0:10→ 墓所参道入口 →0:10→ 元就公墓所

 →0:20→ 山頂 →0:15→ 郡山公園 →0:05→ 歴史民俗資料館

全歩行時間 1時間00分

登山行程図(地図をクリックすると拡大)

 岡山県の山へ登るため新見市へ着くと、雨が降り始めた。これで今日の登山の中止が決定、私は雨の降る日には登山をしないことにしている。そこで次回登山に備えて最初に大佐山の登山口探し、次に鳥取県の鬼林山と稲積山へ向かう道を確認した。これで登山口探しが終了したので、島根県奥出雲町横田まで行き、出雲そばを食べることにした。

姫のそば ゆかり庵

一風庵

 最初に向かったのは稲田神社のゆかり庵で、久しぶりに本場の釜揚げそばを食べた。蕎麦の味が以前のワイルド感あふれるものからスマートになっていた。次に一風庵へ立ち寄り、釜揚げそばのはしごをした。こちらはやはり美味しい蕎麦である。おみやげに奥出雲産の唐辛子等を買い、広島県安芸高田市に入ると吉田郡山城の案内があった。

麓から眺める吉田郡山城 安芸高田市歴史民俗資料館

 安芸高田市歴史民俗資料館前で郡山城について話を聞くと、山頂までは約1時間程度の登山時間というので登ることにした。駐車場はもう少し上の大通院谷公園にもあるそうだが、最後に清神社へ参拝して戻る際に登り道となるので、そのまま資料館前に車を置いて登山を開始した。これは後ほど苦労をする原因となる。

正面に郡山 少年自然の家を過ごす

 さて資料館前を出発すれば、北東にはこれから登る郡山がそびえている。舗装道を進み、右に安芸高田少年自然の家を過ごす。なお、少年自然の家の一段上には毛利元就公の像が置かれていた。道を隔てて左側には史蹟郡山城跡の石柱と青教吉師の跡の石碑、郡山城跡についての案内板が置かれており、郡山城跡については、次のように案内されていた。

石碑と石柱が並ぶ 毛利元就公像

 郡山城は南北朝時代の建武3年(1336)毛利時親が郡山東南麓に旧本城を築城、後に元就が郡山全山を城郭化し、さらに輝元が改修を加えた大規模な山城で、毛利氏約260余年間の居城であった。郡山城は、北流する可愛川と、それに注ぐ多治比川との合流点の北側にあり、標高390m、比高190m、範囲は約1km四方に広がる。

 遺構は、山頂に本丸、周囲に二の丸、三の丸のほか、御蔵屋敷の壇、勢溜の壇、姫の丸の壇など、大小約270の曲輪が配置され、ところどころに石塁の跡が見られる。天文9年(1540)9月、尼子晴久が三万の大軍を率いて来攻したが、毛利軍は小勢ながらよく戦い、翌年1月尼子軍を敗退させた。

三矢の訓跡碑 分岐を左折

 その後、毛利軍は、この城を本拠として、中四国、北九州にまで勢力をのばした。天正19年(1591)輝元の広島城移城後は廃城となり、江戸時代に入って建物、石垣等も壊され、堀も埋められた。郡山城は、中世山城の特徴を今に伝える貴重な遺跡である。

毛利元就火葬場跡 郡山城が近くなる

 さて舗装道を進み左右の分岐は左道を採る。この上には毛利元就火葬場跡があり、周囲は低い石垣で囲まれていた。案内によれば、毛利元就は、元亀2年(1571)6月14日75歳で逝去、6月20日初七日の法会の後、この火葬場で荼毘に附されたそうだ。

毛利輝元墓所へ向かう 毛利輝元墓所

 火葬場跡を出発、日本百名城郡山城の石碑を眺めて大通院谷公園を横切る。この先に毛利輝元墓所の案内を見つけたので立ち寄ってみる。分岐を右折し、案内に従い進めば、すぐに墓所へ到着。墓所の周囲を一周し、元来た道を引き返すと、郡山城跡案内図の立つ毛利元就公墓所参道の入口に着いた。

毛利元就公墓所参道の入口 右に墓地を過ごす

 大鳥居をくぐり、参道に入る。コンクリート舗装の道を進んでいると右に墓地を過ごす。この地名は用十郎と言われており、毛利家側用人が十名いたので用十郎となったそうだ。すぐに鳥居の前に着き、右に立つ石碑には「毛利元就の墓」と刻まれている。

洞春寺跡

 このあたりは洞春寺跡で、毛利元就の三回忌にあたる天正元年(1573)に菩提寺として、孫の輝元が創建し、元就の葬儀の導師であった嘯岳鼎虎禅師を開山とした臨済宗の寺跡である。輝元の広島移城の際、広島城下に移ったが、毛利氏と共に山口に移転、間もなく萩城下に移され、明治2年(1869)再び山口市内に移された。

 

毛利一族墓所

 さて、最初に毛利一族墓所を見学する。この毛利一族の墓は、郡山城内、城下にあったそれぞれの墓を明治2年(1869)にこの洞春寺跡の元就墓所境内に移葬されたものである。左側の一画の土盛には、左から24歳で亡くなった毛利興元(元就の兄)、2歳で父隆元の跡を継ぎ9歳で亡くなった幸松丸(興元の長男)、隆元夫人(大内氏の重臣内藤興盛の三女、大内義隆の養女)墓の三人の墓が祀られている。そして右側の一画は郡山城初代城主毛利時親から八代豊元までの合墓である。

毛利元就公墓所(クリックで拡大) 百万一心碑

 次に毛利元就の墓所へ参拝、中国地方を平定した戦国の勇将毛利元就は、郡山城で生まれ郡山城で75歳の生涯を閉じるまで、戦乱の日々をこの安芸の国吉田郡山城を本拠に過ごした。墓所には大きく白いハリイブキを見るが、現在は枯れているそうだ。この一画には百万一心の石碑が置かれていた。

 この文字を分解すれば、一日一力一心となる。日を一にし、力を一にし、心を一にし(日を同じうにし、力を同じうにし、心を同じうにする)、衆以て事に当たれば百事就らざことなく(国人が皆で力を合わせれば、何事も成し得る)と言う意味である。

 文化13年(1803)長州藩士武田泰信が郡山城跡へ登り、この石の文字を模写し、山口豊栄神社へ奉納した。現在この境内に建立されている石碑は、豊栄神社のものに因って作成されたものである。毛利元就公の墓所への参拝を終えたので、いよいよ郡山城跡へ向かって出発する。

本丸へ向かう(クリックで案内) 滑りやすい石畳み

 本丸800m、登山口などの案内に従い石畳の道に入る。この道は雨上がりには滑り易いので要注意、元就公葬儀の導師で洞春寺開山の嘯岳鼎虎禅師の墓が右側に建立されていた。

嘯岳鼎虎禅師の墓所 眼下に安芸高田市の風景

 整備された遊歩道を進めば、左に郡山第1号古墳への案内を過ごす。緩やかな傾斜の道を辿り、本丸へ530mの案内を見送れば、この先の右手にベンチの置かれた休憩所が用意されていた。眼下を見下ろせば、安芸高田の市街にショッピングセンター等を眺めることができた。

本丸へ350m 御蔵屋敷跡

 小休止の後、更に遊歩道を進み、本丸へ350mの石柱を過ごす。周囲は自然林に覆われて展望は全く望めない。やがて平坦な御蔵屋敷跡へ着く。この屋敷跡は、東西20m、南北30m、面積600uの広い敷地を持っている。もう本丸までは100m、土塁跡や石垣跡を眺めて二の丸跡へ着く。

二の丸跡(クリックで拡大) 本丸跡(クリックで拡大)

 二の丸は本丸の南へつながり、約2m低く北西にある石列で画した通路でつながっている。ここまで来れば本丸跡は目の前、わずかに進むと本丸跡へ着く。案内には「郡山城の本丸は、郡山城の山頂に位置し、一辺約35mの方形の曲輪でなっている。その北端には一段高くなった櫓台がある。櫓台は長さ23m、幅10mの広さで現状は破損が著しい。この地点が一番高く、標高389.7mである」と記されていた。

山頂へ向かう 城山山頂

 一段高い山頂へ着けば、御本丸跡の石柱とその後には標高点の名残のような石柱が置かれていた。山頂周囲は木々に覆われて全く展望はない。山頂を出発し、次は本丸の東に位置する三の丸を散策してみる。三の丸は城内で最大の曲輪で、曲輪内は土塁や削り出し等によりさらに4段に分かれている。これで本丸周辺の散策が終了したので下山を開始する。

山頂から眺める本丸跡 三の丸跡

 この前後で気になったのが歴史民族資料館の閉館時間。資料館前に駐車しているので、閉館後は駐車場に施錠され、駐車場から出ることは出来ない。山頂出発の時刻は午後4時12分、もし午後4時30分閉館なら、もう時間が無い。そこで山頂から急いで下山を開始する。

満願寺跡 階段状の道を下る

 御蔵屋敷跡を出発、坂を下っていると満願寺の案内を見つけたので立ち寄る。満願寺跡は、郡山城跡の三の丸の西南で、御屋敷跡の南、難波谷を登りつめたところへ位置する。現在でも境内の北側に、東西二つの蓮池が残っている。満願寺は、毛利氏が入城する以前、かなり古くからあったと伝えられ、寺伝によると天平12年(740)に行基菩薩が当地にこられ、可愛川釜ヶ淵で、小さな観音を得られ、自ら大きな千手観音木造を彫刻し、満願寺を建て、これを安置したと言うことに始まるそうだ。満願寺は毛利氏の移城に伴い、広島に移り、更に萩城内に移っていたが、現在は防府市にある。

展望台 展望台から市街地を眺める

 満願寺跡を出発し、郡山公園へ向かう。階段状に整備された道なので、一気に高度が下がり、間もなく市街地を見下ろす展望台へ着いた。展望台の前には大きな布に印刷された毛利の家紋が掲示され、眼下には安芸高田の市街が広がっている。久しぶりの展望に満足し、坂を下る。

明治天皇聖徳碑 郡山公園

 左に遊具施設を過ごし、清神社の案内に従い坂を下る。間もなく明治天皇聖徳碑を過ごすと郡山公園へ着いた。桜の木にぼんぼりが残っているのはお花見の名残だろう。この公園一帯は毛利氏時代には臨済宗の興禅寺があり、永禄10年(1567)毛利元就は、京から能役者観世太夫宗節ら一座を招き、この寺で能狂言を催したそうだ。

郡山城跡の案内 清神社

 公園からは進路を西へ採り清神社へ参拝、この先からは舗装道歩きで無事に駐車地の資料館まで戻った。到着時刻は16時36分、肝心の開館時間は9時から17時まで。いずれにしてもぎりぎりの時刻だった。

郡山城

毛利元就公墓所

市街地の展望

二の丸

本丸

山頂

展望台から眺める風景

郡山公園

清神社

 前の山 剣森山 を見る

 次の山 大佐山 を見る

歩いた足跡  

登山口周辺の地図はこちら 広島県安芸高田市 吉田郡山城跡 登山口付近のMAP

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