飯の山(いいのやま) 山口県周防大島町

2005年12月23日(金曜日)

飯の山

登山口 瀬戸公園前町営駐車場

ガイド本 無し

登山開始 14:24 大多満根神社到着 14:31 大多満根神社出発 14:42 飯の山到着

 15:15 飯の山出発 15:43  下山終了 16:12

登山開始 0:07 大多満根神社到着 0:11 大多満根神社出発 00:33 飯の山到着

 0:28 飯の山出発 0:29  下山終了

登山時間 1:48

 周防大島のミカン畑を見に行くと今年はミカンの表年であり、ミカンがたわわに実っていた。我が家のミカンの収穫は後日のこととして、友人のミカン畑の収穫の手伝いをしていると急に雨が降り始めた。友人宅で昼食を取りながら雨の止むのを待つが一向に降り止まない。

 仕方がないのでミカンの収穫は明日に延期し、大島から帰ることにしたが、沖浦地区から見上げる馬の背山頂にアンテナらしきものが立っている。地元の人に聞くと平生町の大星山に立っている風力発電の会社が馬の背にも発電所を設置しようと風向き等を調査しているらしいとの事だった。もしこれが事実であれば馬の背にもいずれ立派な舗装道が繋がるだろうが、その前にもう一度馬の背山頂に立ちたいと思い、登山口である大段林道竣工の碑を探しに沖浦の出光ガソリンスタンド横の金比羅社を車で出発する。

 以前の記憶の通り、簡易水道のマンホールを道案内に進むと難なく懐かしい大段林道竣工の碑に到着するが、これは後日詳しく紹介することにして、馬の背への道が確認できたため、安心して柳井に向かって帰ることにした。

 大島商船高専の横に車を停め、しばらく飯の山の山頂に立つ展望台を眺めていたが、飯の山への登山道は舗装道、雨上がりでも充分大丈夫なハイキングコースであることを思い出した。そこで、かめや釣り具前の周防大島町の駐車場に車を置き急遽登山を開始することにした。

小松地区から見る飯の山 かめや釣り具前から飯の山山頂を見る

 駐車地からすぐ先の東側は瀬戸公園となっており、飯の山登山口の道標が朽ちてはいるが立てかけてある。瀬戸公園を登山口として進むと郷土大島の功績者顕彰ご案内という看板があり、佐藤栄作元総理、橋本正之元県知事、受田新吉元衆議院議員の銅像及び安元作十元大島町長の碑が瀬戸公園に建立されていることが判った。一旦瀬戸公園を出て国道沿いに少し歩くと正面に大多満根神社の大鳥居が立っている。

大多満根神社大鳥居 佐藤栄作氏銅像

 国道を渡り大鳥居をくぐり、まずは大多満根神社に向かう。神社に向かう階段道の参道の右手には橋本正之氏の銅像、左手には受田新吉氏の銅像、佐藤栄作氏の銅像が建っている。階段を登る毎に背後に広がる大島の瀬戸と大島大橋の景観が広がって行き、程なく大多満根神社に到着し、本日の登山の無事を祈願する。この大多満根神社は、古事記の国生みの神話にある大多満流別命を祭神とした島で最初の社だそうだ。

大多満流別命を祭神とした大多満根神社に参拝 大島の瀬戸と大島大橋

 神社の右手を見ると般若姫社があるので参拝することにした。その横には般若姫伝説を記した石碑が建立されている。この石碑を見て般若姫が大島の瀬戸に身を投げた理由がようやく判明した。般若姫の物語とは次の通りである。

「筑紫豊後の国真野の長者に美麗の般若姫という娘が居た。ある年、大変な干ばつで農民が困り果て、長者は竜神に祈り、もし雨を降らせ豊作となれば般若姫を差し上げると約束をしたところ、たちどころに雨が降り作物が蘇り、住民は大喜びした。その後、三十代欽明天皇の皇子豊日命(三十一代用明天皇)に見初められた般若姫は上洛の際この大島の瀬戸に差しかかったが海は荒れ、潮は渦巻き、船が危うくなった。そのとき一宮大明神が現れ、これは竜神が般若姫を懇望されている為と告げられ、余儀なく姫は海中に身を投じたところ、海は凪ぎ船の人たちは助かった。」

般若姫社 左手には般若姫の霊を慰める五重塔 般若姫慰霊の碑

 般若姫が大島の瀬戸に身を投じる元々の原因は豊後の国の在所の時期にあったと言うことが初めて判った。般若姫の霊を慰めるために般若姫社の左手には豊日命(三十一代用明天皇)が建立されたと伝えられる慰霊の塔が立っている。般若姫社に参拝し、社の後ろを見ると中電の巡視路が続いている。地図もガイドも持たずに出発したのでそのまま巡視路を進むと中電鉄塔の下に到着した。

 その先山頂方面への道は踏み跡が続いているようだが、先程までの雨で露が残っているため薮への道は断念し車道に戻ることにした。再び般若姫社まで戻り車道を進む。車道の左右は温泉付別荘地となっているようで、大島大橋と瀬戸の渦潮が一望できる別荘地にはモダンな建物が点在している。別荘地を通り過ぎ、緩やかな舗装道をゆっくりと進んで行く。

琴石山 別荘地を過ぎる

 飯の山の山腹をぐるっと一周回りで山頂に向かうので、展望も360゜のパノラマが広がって行く。まずは北側に大島の瀬戸と大島大橋の展望が広がる。少し進むと柳井の琴石山が後ろに広がり、柳井港から中国電力に至る海岸線、手前には笠佐島がぽつんと浮かんでいる。その奥の西側に広がる室津半島には平生町の大星山から中の峰・鳩ヶ峰が連なり、上関の皇座山へと展望が続く。

鳩ヶ峰から皇座山の展望

 本日は曇りなので、南側の四国方面の展望は望めないが晴れていればもっと素晴らしい感動があったものと思われる。引き続きの展望は周防大島に入り、頂海観音の頂海山が海岸線からいきなり立ち上がり、文珠山に向けての稜線が視界に入ると一周回りの県道104号、県道「飯の山公園線」も折り返しとなる。

頂海山 木のかい間越しの銭壺山

 文珠山から東方面には眺望峰・高手山が連なり、少しずつ稜線の高度が下がり、眼下に三蒲の集落が箱庭のように広がってきた。瀬戸を挟んで北の方角に銭壺山が木のかい間越しに現れ、程なく舗装道と別れて偽木の階段道に入る。

ようやく偽木の階段道に入る 展望台を見上げる

 右手のアンテナを過ぎた所から見る琴石山が大きい。山頂方向には展望台が聳えている。もう山頂までは残りわずか、階段道を一気に進むが展望台まで来てがっかり、台風による被害なのか天井の板が吹き飛ばされており、楽しみにしていた展望台は進入禁止となっている。

展望台の碑 天井板の部分が吹き飛ばされている

 その先にはTYS・YAB・NHKのアンテナが立っており、位置を移動しながら琴石山・大星山・皇座山・頂海山・文珠山・銭壺山・氷室岳と広がる360゜のパノラマを楽しむ。展望台に登らなくても充分に楽しめる展望が広がってはいるが地上5階の大展望は捨てがたい。展望台の早期の修復を期待したい。

 平成20年7月16日現在展望台は復旧されており、展望台の上からは素晴らしい展望を眺めることが出来る。山頂まで車に乗って進入出来るので、この展望を眺めて頂きたい。

大島大橋とフェリー

大島大橋と琴石山

大島大橋と銭壺山

 山頂の広場にぽつんと埋められた三角点にタッチしてその先にある廃屋を見ると石鎚神社参拝道という文字が目に付いた。廃屋に近づきじっくりと観察すると嫁いらず観音の標識や石鎚神社の標識もあり、昔はこの地に飯の山頂上社石鎚神社が立っていたものと思われる。石鎚神社の看板に次の文章が書かれていた。誰が書いたのか誰の作なのかも判らないが、不思議な場所に書いてあった詩なので紹介する。

この山は君の山だ

神様の山信者の山  そして僕の心の山  君はこの山に桃と櫻を植えた  みんなに見せるため  いまこの山に花が咲いて  実がなり君の心のように美しい  父のごとく母のごとく  親しく懐かしい山  旅にあるとき帰るとき  いつもみんな瞼に浮かぶ山  故郷の山飯の山  それが君の山なのだ

 いずれこの廃屋も崩壊し、この詩を見る人も居なくなることだろう。山頂の風は冷たく、登りは半袖で充分だったが、下りはもう一枚長袖を羽織って降りて行く。ゆっくりと周囲の展望を楽しみながら高度を下げていると、途中で雨が降り始めたが舗装道なので大丈夫、傘を差してゆっくり歩きの25分で大多満根神社に到着、早速登山の無事を報告し瀬戸公園を散策する。

 万葉集三・六三六番の和歌で天平八年(736年)朝鮮半島新羅国への使者の中にいた田辺秋庭の作の石碑があったので紹介する。

「これや此名におふなるとのうづしほに 玉藻かるとふあま乙女ども」

田辺秋庭の作の和歌の石碑

 「これがまあ あの名高い大島の鳴戸の渦潮の中で玉藻を刈る海女たちなのか」という意味で、大島の瀬戸が万葉の昔から航海の要所であったことが偲ばれる。静かな瀬戸公園を抜け出た先は登山口のかめや釣り具前の町営駐車場で、万葉の時代からいきなり喧噪の現代に戻ったような気がした。

 飯の山には、今年登ることを楽しみにしていて結局登れなかった下関の青山、いつか行きたいと思っている鹿児島の開聞岳と同じような一周回りの登山道が続いており、山頂に着くまで東西南北が楽しめる素晴らしい山である。

 周防大島の玄関口でもあり、遠くからもひときわ目立つ山容で、自動車でも山頂に立つことが出来るため、是非とも山頂まで足を運んでいただきたい。また、般若姫伝説の地でもあるので柳井市の柳の井戸、平生町の般若寺とも併せると素晴らしい歴史の道の散策ができるものと思われる。

瀬戸公園

大多満根神社

般若姫社

大島大橋

フェリー

山頂の金比羅社

晴れた日の大島大橋と琴石山

 前の山 魚切山・狐ヶ峰 を見る

 次の山 嶽山(油宇) を見る

歩いた足跡  

登山口周辺の地図はこちら 飯の山 登山口付近のMAP

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