台北〜嘉義〜阿里山へ平成21年4月14日 4月に医博・作家・登山家として各方面で活躍されている中島篤巳先生と一緒に台湾へ行き、東北アジア最高峰の玉山へ登ってきた。その際に立ち寄った観光地などを紹介しながら玉山登頂までの行程をしばらく掲載する。 嘉義駅 台湾本島は与那国島の西、直線距離で110kmに位置しており、大きさは九州よりやや小さい程度。飛行機に乗れば名古屋からも広島からも約3時間程度で到着、時差は1時間、日本の観光客に対してとても優しいお国柄である。私たちは台北から南投県などを取材した後、台中の南に位置する嘉義へ到着した。なお、台北から嘉義まで台湾高速鉄道を使えば、所要時間は約2時間程度である。 台湾には鮮やかなフルーツが多い 嘉義駅から南西方向に3.2km進めば、北緯23度27分4秒51、この緯度上を北回帰線が走っている。北回帰線より南側は熱帯、北側は亜熱帯であり、夏至の日に太陽はこの北回帰線の真上を通る。 北回帰線標塔 一番手前が初代 北回帰線の周辺には公園が整備されており、公園の一角には北回帰線標塔が立っている。初代の標識は1908年(明治41年)に建設され、初代の横から順番に五代まで歴代の標識が並んでいる。四代目までは日本の統治時代(明治二十八年〜昭和二十年の約五十年間)のものであり、四代の先には一際大きい五代目の標塔が立っている。なお、一番新しいのは六代目の標塔で、これは初代の先に立つ北回帰線太陽館、地元の子供達の学習に利用されているそうだ。北回帰線標塔を眺めながら周囲を一周すれば、一時的にも熱帯に入ったことは確か。当日は快晴の空の下、4月だというのに気温は30度近くまで上昇、まさしく熱帯の日射しを肌で感じる事が出来た。 六代目の北回帰線太陽館 北回帰線公園を出発し、阿里山森林鉄道の始発駅である嘉義駅に向かう。阿里山森林鉄道は、インドのダージリン鉄道、チリからアルゼンチンを通るアンデス山鉄道と並んで世界の三大登山鉄道の一つに数えられており、日本の統治時代、木材搬出用に敷設されたものである。 貴重な切符 世界の三大登山鉄道の一つ阿里山森林鉄道 可愛いディーゼル機関車 森林鉄道の乗車口に向かってホームの一番右端に行き、可愛いディーゼル機関車を眺めていると、乗客が思い思いの場所にて記念撮影をしており、台湾でも人気のある路線であることは間違いない。昨年(平成20年)9月に発生した台風15号により、阿里山森林鉄道はしばらく運休していたが、今年(平成21年)2月より条件付で運転を再開、その条件というのが、途中の樟脳寮駅から独立山駅までの五百mを約十五分で歩くことだ。 樟脳寮駅から独立山駅まで歩く 嘉義駅を出発し、車窓から熱帯の風景を眺めていれば約1時間で樟脳寮駅に到着。駅舎を出発し、まるで登山道のような狭い生活道を登って行けば、道の途中には地元の露天商がパイナップルやオレンジ・ジュースなどを販売している。高度は既に五百mを越えているが、まだまだ熱帯なので暑く、多くの観光客が果物やジュースを購入している。試しにパイナップルを食べてみると、台湾のパイナップルは芯まで柔らかく美味しい。 地元の露天商がパイナップルやオレンジ・ジュースなどを販売 森林鉄道は、汽笛を鳴らして独立山駅を出発、森林鉄道の中間点でもある交力坪駅を通過する。周囲の景色は熱帯から亜熱帯、温帯へと変わり、少しずつ肌寒くなっていることを感じる。嘉義駅を出発して約三時間で海抜千四百mの奮起湖駅に到着、この駅では名物の駅弁を売り子が声を枯らして販売している。 和やかな客車内 奮起湖駅を出発、列車は大きなカーブを描きながら一気に高度を上げる。列車の背後にはトンネルが続き、トンネルを抜ければ大きなカーブを描きながら進んでいることが分かる。最後にスイッチバックを繰り返せば、終着の阿里山駅に到着。嘉義の駅からは途中徒歩の行程もあるが、全長71.3kmの所要時間は約四時間である。 阿里山駅と檜の原木 また、嘉義の高度は30m、阿里山駅の高度は2170m。その標高差2140m、次第にのどを圧迫されたような感覚になり、頭を振るとフラフラする。少し酒に酔った状態とくればもう完全な高山病である。足下がおぼつかない状況で駅舎を散策、阿里山駅は原木で作られており、いかにも高原の駅という感じが素晴らしい。真新しい駅舎には金文字の森林鐵路阿里山車站と書かれており、夕日に映えてとても眩しかった 森林鐵路阿里山車站 宿泊場所の阿里山賓館へ着きチェックイン。ホテルの売店に行き、お土産などを購入した後、夕食を摂る。出された料理はタケノコの煮付け、山鳥の唐揚げ、マスのスープと豆腐の入ったスープ。いずれも美味しい料理だった。部屋に戻ると売店で買ったお土産がないことに気がついた。これも高山病の影響か。フロントに行き忘れ物がないか聞くと、預かっていた。これはラッキーだったが、手から荷物を離すと怖い事を実感した。 なお、本文の一部は新聞「雄飛」に寄稿したものです。 |