高杉晋作の旧跡を訪ねて平成20年9月24日 有志一同と下関観光へ。今回は主に高杉晋作の旧跡を訪ねる行程を企画。最初は火の山展望台、山頂から下関市街と北九州を眺めました。ただし、本日は少し霞が掛かっていました。 火の山展望台から眺める関門海峡と関門橋 高杉晋作終焉の地 高杉晋作の旧跡の旅、最初は終焉の地です。ここの掲示板には次のように説明されていました。 高杉晋作(号・東行)は天保10年(1839)8月20日萩藩士高杉小忠太の嫡男として萩城下に生まれ、藩校明倫館に学ぶ傍ら松下村塾吉田松陰に師事し攘夷思想を養いました。 厳島神社 次に厳島神社の前を通過しました。この神社には慶応2年の四境戦争の際、小倉口の戦いの戦利品として高杉晋作が小倉城から持ち帰った大太鼓が奉納されています。その後、小倉側から大太鼓の返還を要請されましたが、「高杉晋作が許すなら返還しましょう」と、この要請を断ったそうです。 唐戸市場 唐戸市場にて豪華昼食タイム、当然ふぐ三昧です。 サビエル上陸の地 キリスト教宣教師フランシスコ・サビエルはポルトガルを出て8年後の1549年に鹿児島に上陸、西国の覇者大内義隆に会うために翌年平戸を経て10月末から11月頃下関の地に上陸しました。 唐戸市場から関門橋 赤間神宮水天宮 赤間神宮 唐戸市場から赤間神宮へ。赤間神宮の祭神は代81代安徳天皇です。寿永4年(1185)3月24日源平壇ノ浦合戦に入水された8才の幼帝をまつる天皇社で、明治8年(1875)10月7日赤間神宮に改称されました。 芳一堂 小泉八雲の小説で有名な耳なし芳一が祀られている芳一堂。 高杉晋作回天義挙之所 碑の解説 横山健堂 高杉晋作回天義挙之所 明治維新の策源地 正にこの地この所である 回天とは何の意か 天皇親政の古に復えすの意であろう 義挙とは何ぞ 義は正義の義である この碑は高杉が明治の昭代をつくり出した地点を示す 否少なくもその主なる一人である 由来歴史は人を造るが 人また歴史を造りもする 高杉は歴史を造る人か 高杉のこの挙は 直ちに近代国家への進展を見なかったが たしかにその一道程を進めたものと言えよう 功山寺
山門 国宝 功山寺仏殿 高杉晋作挙兵の象 元治元年(1864年)12月15日高杉晋作は「これより、長州男児の肝っ玉をご覧に入れ申す」と三条実美ら五卿に告げ、功山寺の石段を馬に乗って駆け下りたそうです。この時晋作と共に決起したのは力士隊隊長の伊藤俊輔(博文)・遊撃隊長石川小五郎他総勢わずか80名余でした。
功山寺周辺(動画) 乃木神社 陸軍大将乃木希典将軍を祀る乃木神社です。東郷平八郎とともに日露戦争の英雄とされています。 東行庵 この地は清水山と言い、幕末の奇兵隊軍艦山県有朋は麓に草庵を建て、無隣庵(むりんあん)と名付けていました。慶応3年(1867)4月、高杉晋作の遺言により遺骸を奇兵隊の本拠に近いこの地に葬りました。晋作に仕えていた愛人うの(後に谷梅処)は黒髪を断って出家したので、山縣は明治2年(1869)無隣庵を梅処に贈り欧州に旅立ちました。 高杉晋作辞世の句碑 おもしろき こともなき世を おもしろく 晋作 すみなすものは心なりけり 望東 高杉晋作墓所 最後に高杉晋作の墓にお参りしました。奇兵隊建立による玉垣をめぐらした長方形の墓域にあり、墓石の高さは61cm、幅は24cmです。 |