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直線上に配置

殿敷と直会峠、安芸歴史街道を訪ねて

平成20年9月28日

 島根県境に近い三次市作木町岡三渕、県道437号をを走っていると藁葺き屋根の懐かしい建物が見えてきました。

 いったい何だろうと寄り道、ここは旧庄屋屋敷の「殿敷」です。説明板によれば、殿敷、三上家の由来はその昔、南北朝時代文和年間(1352〜1356年)の頃、三加美安房守の藤原勝文という侍が奈良より下り、佐和肥後守の来賓として当所西田五原山に城を築き、東西5里有余(20キロメートル四方)の地を領しました。(西田五原山は現島根県赤来町井戸谷と見られ、そこには小原山、別に城山といわれていたところが現存します。西田屋という地名も見られます)

旧庄屋屋敷 殿敷

 この藤原勝文は田原藤太秀郷の後胤とあり、系譜ははっきりしています。南都より西国落ちのとき、氏神として春日神社の像を懐にして下ったと当所、岡三渕の春日神社の旧記に記されています。この安房守の4代目蔵人益勝は文亀年間(1501〜1504年)に、石州高根城主によって滅ぼされ、その一子千代丸が母と共に落城して当所猪臥の岡に住み、成長してその名を右京重勝と名乗りました。母は尼となって住み、この丘を比丘尼ヶ城とも殿敷ともいい、当家の元祖となりました。以来500年の歴を刻んでいます。(殿敷系譜書による)

コスモスが美しい

殿敷入口

 また、小説「荷車の歌」はここ「殿敷」に奉公するセキと郵便配達の茂市の出合からはじまり、茂市と結ばれたセキは因習と苦難に耐えながら、赤名峠で明治、大正と荷車を引きました。モデルは日野イシ、作木町森山生まれ。作家山代巴は一途に生きたイシさんの語りに心をうたれ、「荷車の歌」を(1956年)書き上げました。

懐かしい茅葺き屋根

心和む風景

春日神社

 殿敷を見学して県道を進むと先程の説明にあった春日神社を過ごします。

両国橋

 江の川に架かる赤い両国橋を渡り島根県邑南町に入ります。

邑南町説明板

広島県と島根県の県境 直会峠

 県道4号を南下すると再び県境の峠、直会峠(なおえだお)を越えて広島県安芸高田市に入りました。この峠は広島県文化百選「道」に選定されており、古くは「かいち峠」と呼ばれていました。「かいち」は「垣内」を当て、「かいと」とも読みます。国境の地域をさす地名として用いられたものと思われます。

国境を示す「従是南安芸国」と記された道標

 この道がいつごろ開かれたかは明らかでありませんが、中世末期には開かれていたようです。天文9年(1540)尼子晴久が三万の軍勢を引き連れ安芸吉田の郡山を目指したのはこの峠を越えてのことでした。改修された県道の西側の山際を旧道が走っていますが、人々はこれを「尼子道」と呼びます。国境を示す「従是南安芸国」と記された道標は、もともと西寄りの旧道にあったものですが、道路改修によって近くの地蔵堂とともに現在地に移設されました。

地蔵堂と直江峠(広島側から)

 近世には石見で産出された砂鉄が運ばれ、明治になって出羽(現瑞穂町)の牛市へ通う牛馬が行き来する道となりましたが、道幅が狭く、この峠道は難所であったと言います。その後、大正時代には道路改修が行われ、昭和初期にはバス路線が開通するなど、今もこの峠の役割は大きいです。

 道端の地蔵堂には、この地方では珍しく、六地蔵が安置されています。六道(人間が死後赴く六つの世界・地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上)における苦しみの救済が六地蔵の功徳ですが、ここでは峠を越える人々が旅の安全を祈願したものでしょう。

この峠を南に下った所に降子神社があります。その祭礼で奉納する「楽打」(高宮町無形文化財)を先導する棒使いは、ここ直会集落の若衆がつとめることになっています。

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